肥田氏の祖は諏訪氏の末孫で木曽義仲に仕えた。義仲没後、肥田兵部少輔軌吉(忠直)肥田瀬村から米田庄福島へ移り、永禄二年(1505)に福島城を築いて肥田姓に改姓した。子の肥田玄蕃允軌休(忠政)は永禄三年(1560)に城を加茂山へ移し、米田城(福島城)とした。

玄蕃允は米田地方一帯を支配し、牧野・和知・細目などもその支配下にあった。城下の段や羽根坂の地区に家臣の住居が建ち並んでいたと伝わるが、現在は住居跡や古井戸は消え、寺跡や墓碑石が残るのみである。羽根坂から下米田を通り馬串山へ至る道は、玄蕃街道と呼ばれていた。

森長可によって落城

天正十年(1582)春、森長可は馬串山が欲しいと使者を遣わしたが、肥田玄蕃允は息子・長寿丸の居城で来年家督を譲り、私は馬串山で隠居する、と拒否。同年(1582)六月、本能寺の変で織田信長が倒れると、信濃四郡(信州更科・高井・水内・埴科)を領して信州松代の海津城にいた森長可は、急遽金山城に帰ることになった。これを機に木曽義昌と東濃の諸将の遠山友忠・肥田玄蕃(加茂郡米田城主)らは暗殺を目論んだ。しかし長可が義昌の子を人質にとった為、暗殺は不首尾に終わる。

やがて森長可は、同年七月二日、信長と共に本能寺で没した蘭丸・坊丸・力丸の葬儀を終え喪服を脱いで鎧に身を固め出陣。可成寺の渡しから中山に入り、諏訪の段に登って福島城へきた。城内は男子出産の慶事で防戦の用意がなく、玄蕃は幼児と奥方を連れて城を家臣に任せ比久見村に逃れた。馬串山の長寿丸は城兵を率いて駆け付け、背後から金山勢を攻めて城内に入ったが両親の姿はなく、自身は下吉田を向かう途中に脇腹を撃たれた。追手を切り崩し両親の後を追うも、玄蕃は比久見の百姓家に生後間もない男の子を預け、下吉田の渡しで舟に乗り対岸へ渡ろうとしたところ、背後からの呼び声に気づき振り向くと長寿丸が岸に立っていた。長寿丸は最後の力を振り絞って落馬し絶命した。両親は嘆きつつ遺体を舟に運び、船頭の指示に従って対岸に葬った。奥方は産後の病弱もあり同行出来なかったため、玄蕃は家臣を付けて船頭に奥方の身柄を託し、自らは加治田城主・斉藤新五郎を頼って落ち延びていった。奥方は天正十年七月二十日まで上川辺地内にかくまれていた。(『米田之庄肥田軍記』)

後に玄蕃允は忠政と改め、高山城主となった金山長近の娘の妻の縁で姻せきの鉈尾山城主の佐藤氏に保護されその地で没した。

城郭

山頂に本丸があり、周囲を土塁や曲輪で囲み、本丸の入口には虎口が設けられている。なお現在の本丸跡には愛宕神社が祀られている。本丸近くの南斜面と東斜面は、大手曲輪・二ノ丸曲輪・腰曲輪で防備され、北斜面は土塁が、西斜面は竪堀と急斜面の断崖で侵攻を防いでいる。本丸から東の平坦地には展望のきく出丸がある。南斜面の中腹、加茂神社東側には山麓から登る敵を阻止するための長い堀切があるが、現在は土砂に埋もれ一部は通路となっている。南側中腹に広い段丘の場所があり、加茂神社の前には馬場跡がある。現在も馬止め石が残されている。

参考
川辺町史編さん室『川辺町史 通史編』(岐阜県加茂郡川辺町、平成八年)132、133、136、137頁
『かわべの文化遺産』(川辺町教育委員会、平成14年)27、28頁

加茂郡川辺町
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