周辺の湊で最も繁栄し、ここから出る船は麻生船とよばれた。薪炭を主として米や茶などの産物や、旅人の運送など、船便の拠点となっていた。伊勢神宮に行く人々もここで乗船して川を下った。

下麻生湊が繫栄した要因は、飛騨木材の終結地であったからである。寛永十九年(1642)にはその機能を果たしていた。川幅が広く流れが穏やかで木材を止めるによい場所であった。船の数も大20、小10余隻、下流の船もここへ集まったという。

綱場の関係から、人の出入りや貨物の運搬が盛んで、この小さな河岸の村が、当時一千人の人口になっていた。船稼ぎ・筏師・綱場人夫も数多く定住し、問屋・旅館・料亭が建ち並び、複数の銀行も川辺町ではじめて開設された。

その後高山本線の開通や、発電所のダム建設によって、湊は姿を消していった。

参考:『かわべの文化遺産』(川辺町教育委員会、平成14年)35頁

加茂郡川辺町
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