織田侍従信孝出生地

※詳細な場所は不明。

このあたりの熱田神宮社家の宅にて、誕生された。永禄元年(1558)のひと月の間に信長公の男子二人出産した。一人は三助殿(信雄)、母は生駒氏で、兄の信忠と同腹であったため、重んじられて出産の報告がすぐさま信長公の耳に届けられ、それゆえ次男と定められた。もう一人は三七殿(信孝)で、熱田の神人・岡本氏の家にて、三助殿より二十日あまり早く生まれたものの、その母は坂氏の娘で身分が低かったため、すぐには報告されず、長い間、経ってから信長公の耳に届いた。そのため、信雄公より兄であったが、三男と定められた。これによって信孝は常に鬱憤を抱くようになり、「我は大臣(信長)の次男であるにもかかわらず、不幸にして信雄に越され三男となったこと、無念の極みである」と。

「ああ、変もあれば、我は信雄を差し越えられる」と、長年思っていた由が『織田軍記』に見える。世に「三七殿」と称され、無官の人と思われがちであるが、『歴名土代』には織田信孝は天正五年(1577)10月7日に従五位下に叙され侍従に任ぜられた、ことが記されている。明智日向守光秀が信長公父子を討ち、さらにまた信孝をも討とうと攻め上ってきたところを、羽柴秀吉や池田信輝(勝入)が信孝に先んじて光秀を誅殺した。ここにおいて信孝と信雄の間で天下の権をめぐる争いが起こり、信雄は当国(尾張)の清須に移り、信孝は美濃の岐阜に移って合戦となったが、信孝が敗軍となった旨が『勢州四家記』に見えている。『天正記』の柴田勝家滅亡の條に三七信孝

たらちねの 名をばくたさじ梓弓 いなばの山の 露ときゆとも
代々受け継いだ名を決して汚さない。稲葉の山の露と消えようとも。

と、辞世の一首の和歌を書き添えて自害した旨が記されており、『豊鑑』には、信孝が岐阜を落ち延びて船に乗り、知多郡野間に至り、そこで自害したことも記されている。その性格は知勇にあふれ義理堅く猛々しく、信雄公よりも才能や徳に優れていたものの、かの豊臣氏の鋭い武略に阻まれ、念願を果たせなかったことは、誠に口惜しい次第である。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市熱田区白鳥3丁目6番4号