永禄七年(1564)、姫栗の猪狩山城主・茂地野修理太夫と久須見峯山城主・松尾左京が戦った。初戦では謀臣小栗新蔵、松村源右衛門らの奮戦により松尾勢を退けたが、同年十一月、松尾勢が再び夜襲を仕掛けた。決戦の末、茂地野氏は城を捨て毛呂窪方面へ退却したが、横引地で松尾に追いつかれ一騎打ちとなった。茂地野は栗鹿毛の馬に黒糸縅の鎧、松尾は黒鹿毛の馬に同じく黒糸縅の鎧を着けて戦ったが、茂地野の太刀が折れ、両者は馬上で組み合い落馬した。ついに茂地野は首をかかれ、松尾は勝どきをあげて沢を下った。やがて、この沢は「勝沢」と呼ばれるようになり、茂地野の遺体は姫栗の桶田弥左衛門が大岩の下に葬り、石塔洞の名はその墓に由来すると伝えられる。

参考:恵那市史編纂委員会『恵那市史 通史編 第一巻』(恵那市、昭和58年)856頁

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