寛文元年(1661)四月一日、西尾権左衞門の領村・可児郡塩帷子村に切支丹宗門の者がいたことが発覚。

尾張藩へ頼み、奉行・渡邊新左衛門、足軽大将・田邊四郎右衛門、代官・勝野太郎左衛門、目付鳥居伝右衛門等五十余人、手代捕手数十人で出張し、一類二十四人を捕縛して退治した。この年六月尾州領内は御国奉行藤田民部より切支丹札を改め掲げしめ、賞を懸けて類門を絶滅することを督励していた。元禄十年(1697)に至って、塩方村の一類三十五、六人は笠松で吟味の上、処刑されて塚(大臼塚)が築かれた。

これより宗門は厳重となり、寺手形を徴することとなった。当時二月及び十一月両度に改めたが、同五年正月晦日、その後毎歳二三月を以て一度改むることとなりたり。延宝五年(1677)に至り隔年となせしが、天和元年(1681)に至り戻った。

可児郡塩村は、尾張藩領の中でもキリスト教の盛んな所だった。

参考:『濃飛兩国通史』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)406頁


可児市塩454番地
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