山県郡。山城である。
その始まりは鎌倉初期の承久三年(1221)、承久の役に遡る。(新羅三郎)源義光六世の孫である逸見又太郎義重(法名白蓮)は、父の惟義と共に関東(鎌倉方)に属し、大井戸を渡り戦功を立てた。おそらく、この役の京方に大桑太郎という者がおり、齋藤氏の族とみられるが、戦後にその領地大桑郷を没収されて義重に賜ったもののようである。その子・又三郎重氏(法名定心)が当郷を相伝し、重氏には七人の子がいたが、大桑または逸見と称した。このうち七郎氏義(法名定心)が大桑氏を号して当郷を惣領した。子に七郎太郎惟泰があり。(『尊卑文脈』)『明細記』には重氏、その子三郎太郎頼隆、その子孫三郎長義、大桑城に居るとあり、一説に重氏の子の義氏その子惟泰もここに居たという。
室町中期になると、のちに美濃守護となる土岐左京大夫持益(1406-1474)が、守護に任命される前に大桑郷萱野の山麓に居城した。明応(1492-1501)の頃には大桑兵部大輔定頼が、ここに居城した。
守護・土岐左京大夫頼芸は、革手城から大桑山へ移り、本格的に城を築いて居城した。天文十一年(1542)に逆臣・斎藤秀龍(道三)によって大桑城を退われ、尾州へ逃れて織田信秀を頼った。しかし、土岐旧臣の稲葉一鉄、氏家ト全、伊賀伊賀守、不破河内守らが大軍を組織して秀龍と和睦したため、頼芸は揖斐城を築いて居城した。天文十六年(1547)、従弟である越前守の朝倉左衛門督義景や、尾州守の織田備後守信秀(信長父)が頼純・頼芸の兄弟に加勢したため、再び大桑城に拠り、秀龍を討つ策を計った。これに先立つ天文十年(1541)には、秀龍を討つべく土岐右衛門尉頼純(法号・南泉寺)が越前の加勢とともに来たが大桑城で没した。
しかし秀龍は大軍を組織して大桑城を攻めて放火したため、頼芸は越前へ退き、のちに上総へ移った。天正十年(1582)には濃州大野郡岐礼村に帰り、同年冬に没した。
参考
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)