牧村氏は安八郡牧村の地頭であったが、天文二十年(1551)、源頼政の後胤で参河国額田郡寺沢城主・大河内左衛門佐元網の三男・大河内源次郎政忠に牧村土佐守が討たれ、政忠が地頭となった。政忠は牧村強之助と改称して、稲葉伊予守通長に仕えた。(『新撰美濃志』)
牧村氏はのちに稲葉重通の長男・利貞を養子に迎え、牧村兵部大輔利貞と称した。利貞は茶道の千利休七哲の一人で、不破郡岩手の領主・竹中重門(竹中半兵衛の子)の著した『豊鑑』にも、美濃国牧村および牧村兵部大輔の名が記されてある。天正十八年(1590)に牧村氏は伊勢国田丸城に移封された。
牧村城は村の南方にあったが、城跡は開墾され田畑となっている。天正十七年の太閤検地では、城北之地の鎮守宮屋敷(伊富神社)が除地として租税免除され、城之北裏には渡辺助右衛門が三畝歩、渡辺九郎左衛門が二畝歩、坂弥右衛門が六畝歩の屋敷を記され、牧村城の存在を示している。
このほか、槇野田中城屋蒲鋪という字名があり、渡辺孫十郎が三畝歩の屋敷を持っていた。『渡辺覚書』によると、牧村が南都西大寺領であった頃に田中間吉が寺領支配役として年貢や諸役を徴収したとされるが、他の史料に詳細がない。
牧村の地名は、平安時代末期の治承年間に、この地で駿馬が生まれ、源義経秘蔵の愛馬となったことによる。
参考:『安八町史 通史編』(安八町、昭和五十年)35、36頁