牛ケ鼻城の出城だが、史料は少ない。ここに蟄居した斉藤利三は守護代斉藤氏の一族で、母は明智光秀の妹、妻は稲葉氏の出、娘はお福のち春日局であった。永禄年間(1558-)はじめ、稲葉山城主・斎藤義龍との不和により蟄居していた。当時、下麻生城と和知城に稲葉氏一族、牛ヶ鼻城に斉藤氏一門がいた。城には土井庄左衛門が在城し、牛ケ鼻城の出城であったようだ。このような関係から利三は、川辺の土井氏に保護されたとみられるが、滞在は斎藤義龍の死までの三年間に限られ、岐阜に帰った利三は光秀に従って戦国の渦中へ入った。秀吉の天下統一後、光秀関連の資料が各地で抹消され、川辺も後難を恐れて記録を残さなかった可能性がある。

江戸時代に大嶋氏が当地に居住した。川辺大嶋氏の創始者であった光政が開いた。慶長十年(1605)以降、明治維新まで大嶋氏十代にわたり、中之番村、栃井村などを支配した。

大嶋氏は清和源氏にはじまり、やがて大嶋氏を名乗り美濃に居住した。永正五年(1508)に関村に生まれた光義は八歳の時に父・光宗が山県合戦で戦死し、縁者・大杉弾正に育てられ、のち長井隼人に属した。長井氏没落後、永禄七年(1564)に信長に召され弓足軽頭に命ぜられ、元亀元年(1570)坂本合戦の際に信長「今日の働き白雲をうがつが如し、今日より雲八と改めよ」と命ぜられる。本能寺の変では安土城にあったが士卒動揺のため妻子を連れて美濃に帰ったが、秀吉に召出され弓足軽大将となり六千石を領知した。慶長三年(1598)に五千二百石を加増され、美濃国席田郡・尾張国愛智・中嶋郡・摂津国豊嶋・武庫の五郡のうち一万一千二百石余を領知した。関ヶ原役では家康に従い下野国小山に出陣し関ヶ原でも戦った。ときに九三歳であった。翌年正月戦功により、七千石加増され一万八千石余となった。幕閣・本多正純に豊後国臼杵城主に推挙されたが辞退した。慶長九年(1604)七月に九七歳で没し、大雲寺(現関市)に葬られた。遺領は四子に分与されそれぞれ旗本となった。

川辺大嶋氏は4710石で
加茂郡 川辺中之番村 栃井村 滝田村 鋳物師屋村の内
武儀郡 池尻村
池田郡 八幡村
摂津国豊嶋郡 庄本村の内 嶋田村の内 野田村の内
を領した。

居館は城郭形式で、土塁を高くして大谷池から総堀へ水を引いて沼沢を防御に利用していた。往時の絵図には溜池形式の内堀が描かれ、土塁の内側には松・杉が並列して植えられていた。建物は内屋敷や武家屋敷、大小の蔵からなり、家臣団は総堀の内外に住居を構えていた。

参考
川辺町史編さん室『川辺町史 通史編』(岐阜県加茂郡川辺町、平成八年)127、199頁
『かわべの文化遺産』(川辺町教育委員会、平成14年)16頁

加茂郡川辺町
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