竹鼻城跡

秀吉の水攻め

葉栗郡。

明應(1492-1501)の頃まで、長井豊後守利隆が居城した。天文十六年(1547)十一月、織田信秀が竹ケ鼻に押し寄せた事が『信長記』に見えるが、城主の名は見えない。不破源六(不破権内の弟)、権内の頃より居たか。

秀吉の水攻め

天正十二年(1584)小牧長久手の戦いが勃発し、長久手で敗れた秀吉は、尾張西部に主力を移動し、対する織田信雄は竹鼻城に兵を入れ置いた。三柳に陣を置いた秀吉は、竹鼻城の四方に三里に及ぶ堤を、十万の兵をもって構築し、古木曽川を切って水攻めを行った。このため、下流域の中島郡や海西郡一帯は洪水におそわれ、「侍之儀者不及申、土民百姓迄之餓死候」という有様となった(『諸将感状下知状并諸士状写』)。ついに城主・不破広綱は降伏し、六月十日に開城された。その堤は太閤堤という。

その頃、八神の毛利某が秀吉方に味方したので怒った織田信雄は、毛利の一五歳になる娘を捕え「市ノ枝村の内サカイキ本と云ふ堤の上に串刺にして毛利に見する也、昼は立置き夜は源六家人の宅に入置云々」(『尾濃葉栗見聞集』)とある。

のち伊木清兵衞尉忠次、一柳市介直末(のち伊豆守と称す)が居城した。直末は同十四年(1586)に大垣に移った。のち池田勝入の家老、森寺清右衞門が城主となった。

関ケ原の戦いの最初の落城

慶長三年(1598)に秀吉が病死すると、石田三成と家康が対立するようになる。同五年(1600)の関ケ原の戦いが勃発。清須城に集結した東軍(家康側)諸将は、西軍織田信秀の岐阜城を落とすこととし、池田輝政らは木曽川上流の河田を、福島正則らは下流ので渡河した。福島軍は竹鼻城に向かい、起の対岸川西に陣を敷いた。東軍は「鉄砲数百挺、大筒を仕かけて簧を焚き黒煙立て待ちかけたり」(『尾濃葉栗見聞』)とあるから、福島軍は川下から夜中に渡河して側面から急襲し、「敵兵を城内へ引入れしりぞかし」たのだろう。

竹鼻城主は杉浦五左衛門重勝で、梶川三十郎、毛利掃部、花村半左衛門が加勢した。二の丸は落ちたが、城主重勝は立て籠もって防戦につとめたが、その日の午後四時頃に落城した。重勝は腹を切り猛火の中へかけ入って「忽、煙となりぬ」という壮絶な死を遂げた。西軍との最初の戦であったので将兵たちは「物はじめよしと悦び」あった。

そして福島正則軍は直ちに北上して岐阜に急行した。

竹鼻城落城は、江戸にいた家康のもとへ知らされ、八月二十六日直ちに正則以下池田輝政、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興の六人に激励の書状をよせている。福島正則宛の書状は次のような内容である(『徳川家康文書の研究』中巻)

去る二十二日の注進状、今日二十六日の昼頃に到着した。そこもと木曽川畔で一戦に及ばれ、数千人を討捕られ、さらに岐阜に向かって追討された由、まことに心地よき儀に候

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)220、241-243頁