小牧長久手の戦い

天正十二年(1584)に羽柴秀吉と対立した織田信雄は徳川家康と組み戦った。伊勢方面で始まった戦いは池田元助(恒興の子)の犬山城急襲により尾張東部を主戦場とするに至った。徳川家康は小牧城に居陣した。しかし、秀吉はここで事を構えることを嫌い尾張北西部戦線に主力を移動させた。これに先立ち信雄は不破広綱の守る竹鼻城に兵力を入れ置いた。
三柳に陣を置いた秀吉は、竹鼻城の四方に三里に及ぶ堤を構築し、古木曽川を切って水攻めを行った。このため、下流域の中島郡や海西郡一帯は洪水におそわれ、「侍之儀者不及申、土民百姓迄之餓死候」という有様となった(『諸将感状下知状并諸士状写』)。ついに不破広綱は降伏し、6月10日に開城された。

その頃、八神の毛利某が秀吉方に味方したので怒った織田信雄は、毛利の一五歳になる娘を捕え「市ノ枝村の内サカイキ本と云ふ堤の上に串刺にして毛利に見する也、昼は立置き夜は源六家人の宅に入置云々」(『尾濃葉栗見聞集』)とある。

伊木清兵衞/杉浦五右衛門

伊木清兵衞尉忠次の後、杉浦五右衞門重勝が慶長年中(1596-1615)封ぜらるという。

関ヶ原の戦い

慶長三年(1598)八月十六日に豊臣秀吉が病死し、石田三成軍(西軍)と徳川家康軍(東軍)が対峙した。慶長五年(1600)清須城に集結した東軍の諸将は、西軍織田秀信の守る岐阜城攻略の軍議をもよおした。池田輝政以下一万八千余人は上流の河田渡しを、清須城主であった福島正則以下三万余は下流の起で渡河した。福島軍の第一段階の作戦は竹鼻城の攻撃である。竹鼻城にこもる城主杉浦五左衛門らは起の対岸の川西に陣をしき「鉄砲数百挺、大筒を仕かけて簧を焚き黒煙立て待ちかけたり」(『尾濃葉栗見聞』)とあるから、福島軍は川下の加賀野井から夜中に渡河して側面から急襲し、「敵兵を城内へ引入れしりぞかし」たのだろう。

二の丸は落ちたが、本丸にこもる杉浦五郎左衛門尉は要害にたてこもって防戦につとめたが、この日八月二十二日午後四時頃には落城した。城主杉浦五郎左衛門尉は腹を切り猛火の中へかけ入って「忽、煙となりぬ」という壮絶な死を遂げた。西軍との最初の陣であったので将兵たちは「物はじめよしと悦び」あった。

竹鼻城攻略の成功は、江戸にいた家康のもとへ知らされ、八月二十六日直ちに正則以下池田輝政、浅野幸長、黒田長政、加藤嘉明、細川忠興の六人に激励の書状をよせている。福島正則宛の書状は次のような内容である(『徳川家康文書の研究』中巻)
去る二十二日の注進状、今日二十六日の昼頃に到着した。そこもと木曽川畔で一戦に及ばれ、数千人を討捕られ、さらに岐阜に向かって追討された由、まことに心地よき儀に候

福島正則軍は直ちに北上して岐阜に急行した。そして九月十五日の関ヶ原の戦いを経て西軍は壊滅していくのである。

参考
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)220、241-243頁

羽島市竹鼻町
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