古義真言宗高野派に属する。鎌倉時代中期建造の、多宝塔は国重文である。

開祖は両面宿儺(すくな)とされ、悪龍退治、救民伝説のある。ただ『仁徳記』によれば、宿儺は皇命に従わず、人民から収奪して栄華にふけっており、退治したそうだ。しかし寺の『縁起』(延宝五年)は異なる。
仁徳天皇の時代に飛騨の蜂賀の厳窟に四手で顔が夜叉に似た異人がおり、天皇の叡聞に達し都へ上り下向の折、美濃国加茂野原で休息していた。その時、二羽の鳩がさえずりなくして高沢の峰に飛び立ち、不審に思った異人は里人に尋ねたところ、峰八分のところの池で万人をなやます龍が栖んでいるそうな。心ひかれた異人は霧がたなびく峰に登り、池には頭をもたげ眼が朝日のように輝く神龍がいた。異人は大悲の蛇羅尼(だらに)を誦すと、神龍は立ち去った。このことが仁徳天皇の耳に達し、異人に勅してこの山に日龍の精舎を築かせた。
なお、寺伝では誦経での退治だが、里人の異伝では格闘の末に剣で退治したとも伝える。周辺には地野、大立、尾の音、血ノ尾というそれらしき地名もある。

国重文の多宝塔にも伝承がある。『縁起』によれば、鎌倉尼将軍(北条政子)の時代に大旱魃にみまわれた。ある夜、尼将軍は夢で神龍があらわれ「美濃日龍峯寺に池がある。法華経千部を写し、供養してその池に投ずれば大雨が降るだろう」と告げた。尼将軍は道連にお告げを実行させたところ、大雨が降った。尼将軍はその謝礼として高沢の伽藍堂塔を再建し、八十町歩の寺領を寄進したという。
その後の戦災でほぼ焼失し、『縁起』の時点で多宝塔だけが残った。

千本檜があり伝説が残る。『縁起』によれば、宿儺が高沢山を開いた後、手にしていた檜杖を池の辺につき立て、それが根付き繁茂したそうだ。

本殿の背後には「みたらしの霊水」とよばれる泉がある。里人によると、眼病に効き、龍宮に通じているそうだ。

参考
『濃飛古代史の謎 水と犬と鉄』(尾関章、1988年)86-91頁

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