中小田井村にあり。臨済宗、名古屋政秀寺の末寺。明應元年(1492)当所の城主(小田井城)織田丹波守常寛が開基し、開山は大猷慈濟禅師。その後天正十九年(1591)、津田又六郎信時の室が再興したという。境内に常寛の碑があり、以下に最低限の現代語訳を加えて載せる。
織田丹波の守平の常寛公碑の銘
桓武天皇を祖とし、家系光を紡ぐ。義気は霜冷で、功名は春昌。日頃の行いを律し、良い功徳で覆うことを忘れず。共に慶びを運ぶ。誰かこれ相当するだろうか。城を築き名声聳え、家を占うと地は康し。七万余日、二千の陽を経て、風旛月燭、夕膳晨香、田井林麓、東雲寶坊。噫(あぁ)神格るや。敬うべく、畏れるべし。石を磨く徳は山高く水長し。 三住妙心現住政秀泰寧山叟銘ス焉
織田丹波守常寛の祖先は桓武天皇から出て十八代、津田織田家の元祖・三郎權太夫親眞の末裔である。汗馬の功(:骨を折り戦功を立てる)、群を抜いて優れている。城を尾州春日井郡小田井の庄に築き、下四郡を領す。龍光山東雲禅刹を創建し、香火の地とする。妙心大猷慈濟禅師を請じ、開山の始祖とする。永正三(1506)丙寅七月十四日卒し、「東雲寺殿前丹州太守開巖化元大居士」と号す。世に知られ、出世の法に偏らず常に己に克ち寛大であったため、衆を得た。その嫡子の織田藤左衞門寛故は父の遺徳を継ぎ、小田井城に居住する。その嫡子の織田藤左衞門寛維は長大の後に、小田井城を譲り、美濃大垣城に移る。天文十一壬寅年(1542)齋藤氏は大垣の城を囲む。その急難は遠く小田井に達する。速やかに馬を駆って来て、敵軍を敗ったが、その戦で死に實相院と号す。これにより父寛故は復城し小田井に帰る。同十九庚戌(1550)二月七日卒し金龍院と諡す。
二男織田又六郎信張は寛維が戦死した後に曩祖丹波守四代の孫となり、尾州下四郡を下知し、小田井城に住む。信長公が世に當るの後に従い、諸国の軍を敗る。元亀元年(1570)、信長公が浅井長政・朝倉義景と戦った時、近江で坂田掃部・三井出羽守等と戦い、四百余を討ち取る。この賞として近江で荘園を賜わる。天正乙亥には和泉国の守護職に任命される。これは連年の勳功への賞である。しかし信長公が本能寺の変で没すると、秀吉公によって囚人となり浅野氏に預けられる。天正十五(1587)正月、赦免され洛(京都)に入るが、疾病に罹り保養の為に浅野氏を以て米二十俵を賜ふ。同九月二日大津で没し、青龍院と号す。時に秀吉公、那須氏によって賻銀百枚を賜う。その嫡子織田又六郎信時は、父信張が和泉国で移った後、小田井城に住む。天正二甲戌(1574)九月長島で討死し、雲頂院と号す。その折、郎従の山端右京進富田(後に堀尾と改める)昌倫等は同所で戦い死ぬ。その嫡子の織田竹千代信氏が小田井城主となり、早世した。瑞光院と号す。二男織田虎千代忠辰は祖父の信張の家督となり和泉に移った。忠辰は信忠卿の前で元服し。忠の字並びに長光の刀を賜う。信氏の早世によって、再び小田井城主となる。信長公が弑亡された後。羽州に配流する。文禄三年(1594)至て免許を得て采地を与えられ、秀吉・秀頼も二君に仕える。慶長十九年(1614)京都にて没し、景徳院と号す。秀頼公の母である湯淺氏から賻銀百枚を賜う。その嫡子は津田左馬助知信で故有て津田と改めた。慶長年中(1644-1648)十四歳で仕え大樹幕下に、美濃では二箇所の采地之を領した。後仕し尾陽太守に奉。秩千石に拜す。正保年中卒す。本知院と諡す。(下略。)
寶永二歲次乙酉七月十四日
東雲主盟 盤首座募化
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)