十九條城

織田の留め城

本巣郡船木庄。

織田信秀の弟・與二郎信康は、天文十三年(1544)九月十二日、◎稲葉山(加納口の戦い)にて討死した。信康の四男七郎左衛門信清は◎犬山城主であり、信清の次男が勘解由左衛門信益である。信益は永禄五年(1562)までここに居城し、同年、信長と斉藤龍興の戦いである軽海夜戦において討死した。墓は軽海村にある。

戦記

墨俣の砦

はじめ、十九條では、斎藤新四郎利良が城を築き、少しの間住んでいたが、その後他へ移ってここには住まず空城となり、年々荒廃していた。

そのようなところ、永禄四年(1561)、織田信長は美濃をうかがい、斎藤龍興を征討しようとして数度軍馬を出して合戦に及んだが、毎回織田方が敗れ帰っていった。やがて、信長はこれらの合戦の勝敗の要因を考察され、老臣や諸士を集めて評議された際、
「我ら数ヶ度美濃に出馬して合戦すといえども、必勝の利なく、味方のみ敗軍する事は、これひとえに足留めの砦などの無き故なり。これによって、中野・円城寺・笠松・墨俣、または十九条などのあたりに一、二ヶ所の砦を築き要害を構え、この方の人数を籠め置きて、それを便りとして次第次第にかの国へ乱入せば、可なるべし」云々
諸士も、「もっとも」と同意した。そうして、まず美濃の斎藤家の領分のうち、墨俣に一箇所砦を築くべしとして、老臣・佐久間右衛門尉信盛を普請奉行と定め、人数を率いて墨俣へ来て、敵を恐れず砦を築こうとした。

時に永禄五年(1562)四月二十三日。斎藤方の勇士たちは、「かの所に砦を築かせては悪かりき」と、武儀郡◎関の城主・長井隼人佐道利、大野郡揖斐の城主・揖斐周防守光親、府内の城主・山岸勘解由左衛門光信、各務郡◎鵜沼の城主・大沢次郎左衛門為泰、不破郡◎菩提の城主・竹中半兵衛重治、そのほか日根野備中守弘就、弟の弥次右衛門弘継、牧村牛之助春豊、野木沢右衛門為頼ら多勢を率いて◎稲葉山を出馬し、墨俣へ馳せ行きて、一戦のもとに佐久間を追い払った。石・木材の類はことごとく捨てさせ、十分に打ち勝ち、◎稲葉山へ引き揚げた。佐久間はほうほうの体で◎清須へ帰り、敗軍の由を訴えた。信長は殊に残念に思い、再び柴田権六郎勝家に命じて、「是非砦を築かせん」。よって勝家が再び墨俣へやって来て工事を始めたが、斎藤方は甚だ憤り、同年五月二日、揖斐・日根野・長井・井上・山岸・国枝・安藤の面々が不意に攻め寄せ、結府下宿のあたりにて大いに戦い、またしても柴田を追い払い、石・材木などをことごとく捨てた。勝家は負けて無念ながら帰陣した。

信長はいよいよ心を苛立たせ、三度目として木下藤吉郎秀吉に命じた。その頃、木下は尾張愛知郡のなかで百貫、海西郡のなかで百五十貫、都合二百五十貫の知行を所領としていた。佐久間と柴田が仕損じた後であり、諸士はみな難色を示していたところ、木下は自ら望んでこれを引き受けた。永禄五年(1562)五月二十七日の夜中、墨俣へやって来て砦の普請を始めた。斎藤方はこれを見て、「味方を侮りし織田の振る舞い、再三の乱暴捨て置き難し。早く馳せ行きて、以前の如く追い払はん」と云々。その時、西美濃十八将の勇士のうち、山岸勘解由左衛門光信(明智光秀の実母の兄である)は、木下の振る舞いは平凡なことではないと察し、「このたび麁忽(そこつ=いい加減)に掛からば、かえって敵の謀計に落つべし。川手と陸手と二方に分かれて押し寄せ、火をもって攻めつくべし」と、兵法上の必勝の良策を勧めた。けれども、日根野・長井の面々、ただ血気にはやり勇猛に戦うことのみを心がけ、山岸の良策に従わなかった。山岸は自らの諫言の届かないことを憂い、「この上、味方の敗軍せん事を見るにあらず(敗軍を見るのは忍びない)。所詮、斎藤を助くるとも、始終(初めから最期)の全きことあるべからず」と察し、これより斎藤家に内変が起こっても、西美濃勢の山岸・揖斐・国枝・竹中らの面々は、ことごとく居城に退いて出仕しなくなった。日根野・長井・牧村らは墨俣へ向かい木下と戦ったが、秀吉は謀略をもって対抗し、これを打ち破った。斎藤方は以後勝つことができなくなった。ついに日を経ずして◎墨俣の砦は完成した。信長は大いに喜び、木下の功績を称え、秀吉を◎墨俣の城主とした。これが木下が城主となった始まりである。なお、これに先立って領地を加えられ、六千貫の知行となって侍大将の列に加わった。後に近江◎長浜の城主となって移った。やがて、◎墨俣は次第に荒廃していった。

十九条城

さてまた、◎墨俣の一城がすっかり完成すると、信長は再び協議し、「同時に今一ヶ所、美濃のうちにて良き地を見積もり、足溜めの一城を築くべし」と前々から仰せになっていた通り、本巣郡十九条村に一城を築かれ、一族のうちの織田勘解由左衛門信益を入れ置いた。これは尾張◎犬山の城主・織田十郎左衛門信盛の弟である。信盛という者は与次郎信康の子で、信康は信秀の弟である。

そうして勘解由左衛門信益は五・六百の勢をもって十九条の城を守っていたが、その頃五月雨が降り続き、起・墨俣の両川がことごとく増水し、なかなか渡ることも難しくみえたため、斎藤方ではその様子を察して、「実にもこの洪水にては、信長の後詰も思いも寄らず。早々攻めほすべし」とて、龍興は命を下して◎稲葉山を出馬し、十九条の城へ押し寄せた。第一陣は牧村牛之助、第二陣は稲葉又右衛門、第三陣は日根野兄弟、そのほか段々に備えを固めて攻めかかった。

勘解由左衛門は、水練に長けた飛脚を◎清須へ走らせ、至急後詰を差し向けられるよう申しおくった。信長はこれを聞くや、時を移さずして◎清須を出馬した。一番池田勝三郎信輝、二番佐久間右衛門尉信盛、三番柴田権六郎勝家、四番林佐渡守通豊、そのほか佐々・塙はじめとして、すでに墨俣川に着いたものの、洪水が堪えあふれて渡り難くためらっていたところ、信長真っ先に進み「川水増さればとて、勘解由左衛門を目の前で討たすべきか」と言って、ただ一騎乗り入れ渡ったので、大将がそのように進めば、我も我もと諸勢乗り入れ、総軍一同、川を渡って向こう岸に着いた。勘解由左衛門出迎えて、かたじけなき旨の礼を申し上げた。「さらば合戦の手分けあるべし」と、かねてより池田を先手に定めていたが、勘解由左衛門「この地に住み居りながら、他に先陣を渡さんこと、面目を失う」としきりに先陣を望んだため、信長「しからば汝、先陣を仕るべし」となり、福富平左衛門貞次を使いとして、池田は二の手に進むべき由を仰せられた。

軽海村の闇闘

さて、五月二十三日の夜、目指す所も知れぬ暗い夜にどこを敵とも知らぬものの、ただただ「かかれ、かかれ」と命を下された。勘解由左衛門、一陣に進んで案内し、軽海村の深田を伝い溝を越えて、向かいの岡野へ駆け上がったところ、斎藤方の先陣・牧村牛之助が鬨をあげて斬りかかってきた。勘解由左衛門はしばらく戦って打ち勝ち、牧村を追い立てたところ、斎藤方の二陣・稲葉又右衛門が入れ替わって激しく駆け入り、ここを瀬戸際と戦い、勘解由左衛門の手の者どもは斬り立てられて敗れた。けれども信益はなお一歩も引かず、多くの敵と戦ったが、やがて斎藤方の兵・野々村三十郎と渡り合い、しばらく戦い、心身ともに疲れ果てついにここで討ち死にした。(野々村は、後に信長に仕官した。)

三十郎は大いに勇み「織田勘解由左衛門信益を討ち取りたるぞ」というも束の間、織田方の池田勝三郎・佐々内蔵助ら二陣から鎗を揃えて隙間もなく斬ってかかり、美濃勢は打ち負けて稲葉又右衛門を佐々・池田が力を合わせて討ち取った。しかし、互いにその首を譲り合って取りかねていたところ、柴田勝家が脇より進み出て、「さあらばその首を取りて、御辺方のその次第を言上せん」と言って、又右衛門の首を取って信長に見せ奉り、池田と佐々の手柄の次第を残さず申し上げた。さて、この時池田は傷を負って退きかねていたが、郎党の土倉四郎兵衛・伊木清兵衛が敵の馬を奪い取り、主人池田をかき乗せて、味方のもとへ引いて帰っていった。こうして、闇夜で敵味方の勝敗も判然としなかったので、又右衛門を討ち取ったのを良き潮合いとして、信長は勝鬨をあげられた。斎藤方も、勘解由左衛門を討ち取ったのを幸として引き揚げた。信長はその夜、軽海村にて夜を明かし、翌朝早々に尾張国へお帰りになった。

今、十九条村の北の外れの道の側に五輪形の石塔がある。勘解由左衛門の墳墓という。さて、十九条の城は、その後、織田方としても強いて守ることをしなかったので、いつとはなしに空き城となり、次第に荒廃が進んでほどなく断絶してしまったのである。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

瑞穂市十九条831番地1
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