当地は安八郡の郡家の所在地であり、安八郷とつづく。神戸町字神戸が中心である。神戸は郡戸、から転訛したものともいう。
弘仁八年(817)、最澄が東国へ巡錫の際、此の地の草庵には善深が住んでいた。郡司・安八大夫(安八郡の最高役人)安次が最澄の留錫を請い、その頼みにより最澄は神戸に滞在した。安八大夫は最澄のために善学院(神護寺)を建立し、影向山神護寺と称した。その際、最澄は「大宮・二宮・聖真子・十禅師」の四柱の神像を彫刻し、比叡山坂本の山王社を勤請して当社に迎えた。 その後、貞観二年(860)、慈覚大師(円仁)が当社に赴き、「八王子・客人・三之宮」の三柱の神像を彫刻し、山王七社が整い、比叡山山王社と同じ社になった。(『善学院文書』)
なお、寛永七年(1630)の史料には、安八太夫安次が山王社・善学寺へ50町歩を寄進した旨と、安八太夫と最澄の関係が記されている。安八郡の主人である安八太夫は、娘の病の治癒を願い、居合わせた最澄に御祈を頼み、最澄が娘の枕を取り上げて観音を彫ると回復したため、寺社領を三拾町歩寄進したという。
平野庄は直接の史料を欠くが、後世の江戸時代に編まれた『新撰美濃志』には、
草道島村は青木の北にありて平野庄なりと記され、さらに、むかしは平野二十五郷みな神戸に属したりここも其一所なりと里老いへり
と伝えている。現在の神戸町柳瀬の小字名に平野が残っている。
事件の顛末は『源平盛衰記』、『百練抄』、『玉葉』、『兵範記』等に記されている。
嘉応元年(1169)の冬、権中納言・藤原成親は、右衛門尉・藤原政友を知行国尾張の目代として赴任させた。政友は途中、美濃国・杭瀬川の宿に泊まり、葛粉を売りにきた平野庄の神人と偶然出会った。政友が葛粉に手を触れている間に葛粉に墨が付き、争いとなってしまった。神人は延暦寺へ訴え出て、延暦寺は寺領である平野庄の神人が凌辱されたということで動き出した。十二月十七日、延暦寺所司・日吉社司等は、政友の主人である成親の流罪を強く要請した。これが聞き入れられなかったので、延暦寺の僧兵は十二月二十三日、神輿を奉じて都に強訴した。僧兵達は後白河法皇の説得にも応じず、公家達は協議の末、翌二十四日、権中納言・藤原成親を備中に流し、右衛門・政友を禁獄した。
永禄四年(1561)六月、信長が禁制を出し、「平野の内 神戸市場」とあてている。神戸市場では神戸升が使われ、他の升の一升が神戸升では九合三升余にあたる(『神戸町史』)。当時は庄園単位で決められており、秀吉の時代になると全国統一の京升が強制され、神戸升も消えた。
参考
『郷土の歴史 ごうど』(神戸町、昭和五五年)29-37頁
『神戸町史 上』(岐阜県安八郡神戸町、昭和四四年)65、66頁