※問屋記念館におく
橋の西、問屋町が数町続き、両側に三十八軒あった。慶長十九年(1614)に市兵衛・九左衞門の二人が創業してから二百二十年余、連綿として繁昌している。由来の詳しい事は『菜蔬朝市記』に譲って略す。凡そ一年中、朝ごとに市をなす。四季の菜蔬・干物まで、新しさを争い、珍しさを競い、当國(尾張)の名産はもちろんのこと、宮重大根をはじめとして名産の品類はたいへん多く、枚挙に暇がなく、すべてこれを略し、その物々の所産の地に置いて、形状風味まで詳らかに示す。
美濃・三河・伊勢・駿河・京・大坂の産物までこゝに集い、あらゆる万物が朝ごとに山をなすも、(このように万物を取捌くので、世に「萬物問屋」といって由緒ある名である。)買出の商人蟻のごとく集り、暫時に荷び出し、また馬車にも積み、府下を初め、隣國・近國・三都までに運送する、実に府下が繁昌する余波で、一大盛事というべし。
(最低限の現代語訳を加えています)
『繋辭傳』によれば、神農氏(中国の皇帝)が昼間に市を開き、天下の民を呼び寄せ、天下の財貨を集め、交易して解散させた。人々は各々欲しいものを得たと。九市・三市は脇に置いてここでは触れない。我が皇國の定められた市のほかにも、市は古記及び古歌に散見するが、それぞれ挙げる必要はない。我が尾張國には琵琶橋西下小田井村の市、数街の間菜蔬の市が有る。慶長年間に場を開いたという。
神祖(家康)はかつて言った、「将来繁昌の地となるだろう」と。果たしてそのような市となった。卯の刻(5時頃)に起り巳の刻(11時頃)に終わる。一年で一日も休みが無い。交易の喧騒は凄まじく、大声はかき消され響き渡らず。往来は満ち、振り返ることも出来ない。我が尾張の遠近の品物、京・摂津の名産に至るまで、ここに集まらないものは無い。じつに市の盛なことというべきか。
市の行頭(問屋)はおよそ三十八家。その中で市兵衞・九左衞門の二人が頭領である。そもそも琵琶橋は、元和八年(1622、壬戌)敬公有司に命じて創造したが、同年十一月、公神祖(家康)の遺思を奉り、下小田井村民市兵衞及九左衞門という者に命じてこの橋を護らせる。その恩賞として永世復田若干を賜う。九左衞門は故あって職を辞し、市兵衞のみ連綿として職を勤め二百十三年に及ぶ。今年春。私はこの地で遊び、市を見てその由来を聞く。いささか二韻四句を述べる。
菜兮蔬兮。如山如阜。無龍斷私。有恩澤普。
(:菜や蔬が、山のように丘のように。暴利を貪る龍断の私心無く、恩恵はあまねく行き渡る。
天保五年(1834)甲午春三月 香實老人
あかれちる市の林に鳥啼きて夕影さむく風吹きすさぶ
上田秋成
(:市が終わり、別れ散りゆく。市の林に鳥が鳴いて、夕方の景色は寒く風が吹きすさぶ。
『泊船集』
市人にこの笠うらう雪のかさ ばせを
芭蕉
参考:『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)