小場塚村にあり。村名の「をばつか」は、「おび」は塚の転じたものだという。治承三年(1179)師長公を恋慕して、亡くなった菊女の墓印である。それより六百七十余年を経て、塚の形もなく、寂寞とした森林となり、かの菊女が琵琶と共に師長公より得た、守り本尊の弁財天の小さな祠がある。嘉永七年(1854)寅の夏、村中より拝殿鳥居を造立し、本社は福井検校が再造し、また門人と共に拝殿で平曲(琵琶の曲)を奉納した。この時、弾いた治承という琵琶は、治承四年(1180)の文字があり、下小田井矢橋氏の所蔵である。そのむかし師長公の引いた音を聞きなれた御神は、鄙びた宮居に鎭座して、絶えて久しい琵琶の音を思わず聞き、神も受け取ったことだろう。
太政大臣藤原師長(もろなが)と尾張井戸田の豪族横江左近之進時影の娘槐(かい)の悲恋物語。治承3年(1179)、平清盛のために尾張に流された師長と槐は知り合ったが、翌年、罪を許されて都に帰ることになり、別れをおしんで土器野の里までついてきた槐に、守り本尊の弁才天と愛玩した琵琶を形見に残した。槐は生別の悲しさのあまりに淵に身を投じた。
はじめは少し南の神明社の境内にあったが、江戸時代末期の大洪水のときに(嘉永3年-1850-旧暦8月の小田井輪中切れ込みのときか)、忠兵衛というものが、自分の屋敷内に移したといわれ、さらに阿弥陀堂内に祀り、明治初年(1868-)に現在の地に移されたといわれている。
参考:
西枇杷島町史
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)