小杁村にある。臨済宗、篠野村妙光寺の末寺。山号は法鄰山。寺伝によれば、往昔、このあたりは禁裏供御料所(朝廷の食糧供給地)で、租税のため年々官吏が来る度に、当寺の別館に寄宿した。その旧跡を後世には眞名代塚と名付くといい、今境内にある古塚がこれである。さて当寺は文永元年(1264)草創で、天台の霊場、山号を法輪山といったのを、後に「鄰」文字に改めたのは、徴税のことから米升邑の字画から名付いた、といい伝えられている。こうして天文九年(1540)篠野村の妙光寺二世松峯和尚を請じて中興とし、今の臨済宗妙心寺派に改めたといわれている。
昭和九年(1931)九月十六日に柳条湖事件が置き、以降戦争推進の世論になってきた。昭和十一年(1936)三月十一日には、仏教会の葉栗郡支部の第一回総会が文永寺で開かれた。
三千年の歴史を有する我が尊厳なる国体に対して今更疑惑を挿むが如き問題を生ずるは是に遺感とする所なり(天皇機関説を意識か)我等は益々国体の本義を明徴にし、(中略)時局強化に貢献せられんことを期す
と宣言している。
参考『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
江南市教育委員会・江南市史編さん委員会『江南市史 本文編』(愛知県江南市、平成13年)176頁
『くさの井史』