兼山湊は、室町時代には木曽川上流の始発湊(みなと)であり荷揚湊であった。『兼山湊船問屋由諸記』によると、永禄十一年(1568)、織田信長が上洛する際、建築資材を木曽谷から中山道を積み登らせ、兼山湊から船積みしている。また天正十一年(1583)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉は大坂を出発するに当り、犬山城主池田信輝に書状を送り、金山城主森長可に、兼山湊から川下の川舟はことごとく犬山湊へ徴発するよう命じている。
当湊は、東濃以北への塩の荷揚地として重要だった。また尾張藩領の木曽山から伐採された大量の檜(ひのき)皮や、岩村藩の江戸廻米1,000〜1,500俵の輸送にも活用されていた。岩村藩の江戸廻米は兼山湊から川舟で下し、桑名湊で立合改めのうえ、千石船によって江戸の蔵屋敷へ海上輸送された。当地の年貢米の積出も行われた。
檜皮は檜および杉の木を春の水上時期に伐採して外皮を剝ぎ取る。古来から屋根葺材料として使われ、江戸時代は藩の御用檜皮として重要視された。信州木曽谷から木曽御材木奉行によって駄馬で搬出され、馬子一綱に牛馬四、五頭宛をもって曳行したという。尾州藩の檜皮はほとんど兼山湊から積出された。
江戸時代初期になると下流の黒瀬湊が発展した。江戸中期に入ると、中山道の地理的好条件のある野市場(今渡)湊が登場し、幕末には新村湊の開湊など、相次ぐ競争相手ができ、昔のような独占的な優位性が失われた。
川岸の水神社と石燈台は船航安全を祈願し船問屋が建てた。石畳は荷役ののぼり降りに容易なように斜伏せになっている。
参考
岐阜県可児郡兼山町『兼山町史』(平成16年)366頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)