※正確な場所は不明、如来山公園なのでこちらと推定

如來山は加家村にある。本文の事実や形容はすべて細井平洲先生の記述に譲るとして、以下にその文を現代語に直して載せる。

如水山記(細井平洲)

我が尾張には山が少ない。山を名とするのは培螻(ばいろう)のみである。名古屋の南十余里に熱田の駅があり、海を臨む。海の東南辺は深く続き六十余里に及ぶ。そこを望むと鵬の嘴のように見えるのが知多郡である。瘤のように突き出し、青い間に赤い崖が見える所を如來山という。ここから十二里離れる。葦を漕いで行けばすぐに斥鹵(しょくら)の地に至る。里は懸村といい、懸崖が多いのでその名がついた。村の南に径(みち)があり、東向きに登ると三、四十丈ほどで山頂に達する。

古くは神女が遊んだという伝承があり、もと「女來」と呼ばれたが、後に仏教の影響で如來と改められたらしい。山頂は平坦で百余歩ほどの広さがあり、山神の祠がある。祠の前から望むと、北には信濃・越後・飛驒の山々が見え、加賀の白山も望める。遠方の山は五、六百里に及び、近い山は二、三百里である。信州と飛驒と尾張と美濃が接する景色が広がる。西には伊勢の山々、東北は海岸、南は流れがほぼ二百里に及ぶ。加賀の山々は背後に重なり、膽吹や多度などの峰が見える。江の山は翠を積み、冠のような峰や錫杖のような峰が朝に特に秀でて見える。勢(伊勢)の山々は皆仰ぎ見るに値し、南西北に一望できる。名古屋城はここから三十里ほどで、楼閣が百尺に層なり、金の瓦が光り目を射る。蒼松が茂り、粉壁が波のように見える。熱田の別館やその南の橋の林なども望まれる。


如來山 加家村にあり。事實形容みな平洲先生の記に譲り、左に其文を載せて別に贅せず。

如水山記 細井平洲

我が尾山無し。山を以て名くる者。培螻之雄のみ。名古屋之南十餘里。熱田驛と爲す。驛は海に臨む。海之東南邊。邃施六十餘里。之を望めば鵬之嘴の如し。知多郡也。其瘤の如くに而青間に赤崖を見る者を。如來山という。此を距る十二里。葦を泛べば即斥鹵の所に至る。里を懸村という。懸崖多きが故に名く焉。村南に徑有り。東向して之に登るに三四十仭可ばかり。即ち山頂也。 古昔神女來遊する有り。故に女來と名くという。後改て如來と爲す。蓋し浮屠氏之しわざ也。坦平方百餘步。山神の祠有り。祠前望む所。北を信越飛濃之山有り。加賀の白山亦見ゆ。遠き者は五六百里。近き者は二三百里。而して信と濃と與尾と與疆を接す。西は則江勢。勢之地。東北濱海。南流殆ど二百里。而して加賀之山。乎其背に層る焉。膽吹多度。積翠睫を染むるは江之山也。冠峯は冠の如く。錫杖は杖の如く。朝間特に秀だ。勢之山也。皆仰で而南西北に一盼す。層樓百尺。金魚甍を鎮む。此距る三十里。瑩々目を射る。名古屋城也。蒼松蓊鬱。粉壁波に墜つ。熱田別館という。其南橋之林の如く。蓬之

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屋の如く。賈舶泊する所。茫汰曰ふ。碧波之中。粉堞帶の如く。晴開陰闔するは。勢之桑名也。城以南邑里草木。明滅時無し。亦皆俯而北西南に一盼す。共に海を隔て而眺むる所也。而して左山足を去る六里。大里という。海中堤を築く。方數百步。茂松森列す。先君亞公所相、營で以って之處老する。今や也則墟し矣。次橫琪と曰ふ。次は藪。次は尾根。次は平井。次は朝倉。次は古見。次は岡田。次は森。次は大野。岡田より大野に至るまで。砂行最厭ふ可し。謂つて日永の浦となす。次を西口と曰ふ。次は多屋。次は牀鍋。次は野間。次は内海。平治中長田忠致。源典厩を弒する處。次を尾浦と曰ふ。次は諸崎。諸崎は郡之南陲。是て島尖と謂ふ。以上諸村。

皆海に沿て南走す。走るを六十餘里。一瞬に而盡く。尾之島尖。志之鳥羽浦。南北相對す。其際十七八里。潮を南溟に通ず。是を海門と爲す。門以内は。古謠に謂所勢之海なり兮。張之海は兮者。南北百三四十里。東西五六十里。周回盤の如し。舟は之芥爲り。帆は之鳥爲り。乍ち大乍ち小。來往織るが如し。東北は維れ參遠。連山黛の如く。時に一點白を於其間に見る。芙蓉峯也。嗚乎此山也。僅に高さ三十仭。而して能く十二州を望む者なり。我が尾山無し。是に於て妙と爲す矣。右轉して而下れば。上懸村也。北上すれば寺を得。觀音寺と曰ふ。是れ余が幼時書を讀む之處。清淨幽寂。塵垢至ら不。春夏之月。都人士多焉に遊ぶ。世門出左行する里餘。平島村と曰ふ。余が生る所也。右轉して而下り。崖を右にし谷を左にす。胴阪と曰ふ。坂を下れば則海地。汀に沿て北里餘。赤崖を得。一之懸と曰ふ。潮至れば行く可ら不。右して巖上自り而行く。崖前百餘步。馬脊の如き者。高座石と曰ふ。潮至れば則沒す。典厩之死する也。其士金王。馬を跳らしめ而亡ぐて此に至る。馬化して石と成ると。此れ其石也。

参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

東海市富貴ノ台2丁目146番地
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