今渡の地名の起こりは、天正十年(1582)森武蔵守が米田城(兼山城の対岸の城)肥田玄蕃を攻めた時、家臣の正木三蔵・後藤平左右門らが当地で川を渡り、先がけの働きをしたことによる。
天明の頃(1781ー88)までは、少し下流の土田で渡っていた。大炊戸(オウイド)の渡といい、尾州名古屋へ渡るのにも便利であったが、流路の変更により、上流の今渡が新路となった。
木曽川の水量が増えると川止めとなり、伏見・太田の宿は大賑わいとなった。太田の渡しは、中山道の難所の一つとして、俚謡(りよう)にも謳われている。
木曽の棧(かけはし) 太田の渡し 鳥井峠がなかよかろ
宝暦年間(1751ー64)には渡船が4艘、通り衆御馳走船(身分の高い方)が1艘、御舟方(藩)から預かった船が5艘あった。諸大名の通行が多い時は、常設の渡船だけでは不足するため、寛永十七年(1640)には今渡・川合・兼山・和知・細目の5ヵ村に対し渡船業務を援助するように命ぜられ、これは助御舟といった。
明治三五年(1902)に岡田式渡船が設置された。岡田式渡船とは、両岸に丈夫な柱を立てて、間にワイヤーロープを張り、特殊な滑車を取り付ける。そして、滑車と渡船をワイヤーロープで結ぶ。洪水の場合でも安全に川を渡る事が出来るようになった。設置後、長さ八間(約14.5m)の舟一艘で、一度に乗客五十人を運べるようになり、増水による川止めもほぼなくなった。これを手始めに岐阜県内六十ヵ所余、国内はおろか満州の渡船にも採用された。
もともと信州伊那から京・大阪向けの荷は中山道を驛継ぎし、御嵩驛から伏見を経て兼山湊まで運ばれていた。しかし江戸時代になると、中山道をそのまま野々市まで運び、そこから川下げするようになった。
そのような中で尾張藩の木曾谷御免荷物の取扱いや、恵那郡岩村山から出荷される檜皮までもが、もとの兼山湊から今渡湊から積み出されるようになった。これは今渡湊の枡屋伊兵衛の政治力が大きい。しかし、今渡湊は天領(幕府直轄)であり尾張藩領でなく、藩の収入にならず、兼山湊の商人の訴えもあり、天保四年(1833)に御役所より木曾福島より馬籠までの各宿の問屋宛に兼山の山本鉄造を今渡同様取り計らうよう触状が出された。
土岐方面の陶器生産が高まると野々市湊へ集積し、荷物の第一が陶器となった。年貢米の積出も行った。
参考:
千田英元『木曽川の水と尾張地域』(1984年)171、226、299頁
岐阜県可児郡兼山町『兼山町史 復刻版』(平成16年)
『木曽三川流域史』(建設省中部地方建設局、平成4年)656頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)