下大留村の産神(うぶすな)、内宮神明社の境内にあり攝社にあたる。

当社の祠官小林氏は、乎止興命の末裔で、当国の人であるが、尾張員元の代に南朝に仕え、官軍に属して数度の軍功があった。應安年中(1368-1375)親王に供奉し本国に帰り、ここで暫く滞留し、親王もこゝに留まりなさり、往古は王留と村名を呼んだと、今も里でいい伝えられる。その子孫の親王を祀って、「白日霊社」と呼んでいる。

先年、府下(名古屋城下)の處士清水将作成利という者は、楠家の末裔であったことから、脇差一腰を奉納し、今も神宝とする。成利は九老尚歯会に選ばれた一人で、たいへん歌詠みである。『鹽尻』に、中務卿宗良親王御集『李花集』によれば、戦場に赴く道すがら、いさむべきなど兵どもにいいふくめ、考えていたが、

君がため世のため何かをしからん すてゝかひある命なりせば

(:天皇のため世のため何か惜しいことがあるだろうか 捨てて甲斐ある命となれば

遠江国に長く住みなさり、今は都での振る舞いもわすれ果てたのみならず、ひたすら弓馬の道にのみたずさわりなさり、征東将軍の宣旨など賜ったが、我ながらふしぎにおぼえられたのか、歌を詠みなさり、

おもひきや手にふれざりし梓弓おきふし我身なれん物とは

(:思いもしなかった 手に触れてこなかった梓弓が、寝ても覚めても我身に馴染むようになるとは

按ずるに、宗良親王ははじめ遠江國の井伊介道政を奉じて井伊谷に下り、その後駿河國田貫に滞在した。正平八年(1353)二月、新田武蔵守・大江田式部大輔・上杉民部大輔など親王を奉る。『新葉集』には征東将軍と記し、『李花集』には征夷将軍と記し、兵士二万ほども従い奉ったと書いたように、当国及び関東に多く来られて、生涯武事にたずさわりなさった親王である。このような山中の小社にこの親王を祀る事は、たいへん尊く感じられる。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

春日井市大留町5丁目27番地5
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