西国の大押

清須から名古屋へ移築が決定したころ、徳川義直はなお幼少で家康の膝下駿府にあり、傅平岩親吉が犬山城において国政を執っていた。慶長一四年(1609)正月七日家康は義直を従えて駿府を出て二月一五日清須城に入り、数日滞留し、城郭経営を指図した。

家康は加藤清正(肥後)・福島正則(安芸)・浅野幸長(紀伊)・金森長近(飛騨高山)・竹中重門(豊後高田)・山内忠義(土佐)・池田輝政(播磨)・松平利光(加賀)ら西国北国の諸侯二十人に名古屋城の普請を命じた。これは近江国彦根城・丹波国篠山城・丹波国亀山城の普請と連動する天下普請で、「西国の大押」として大坂城包囲網を整備する意図があった。

金鯱の城

清正が造営した五重の天守閣は、清須城の天守材も一部転用され、慶長一七年(1612)に金鯱が棟に上がって完成した。青銅の瓦で葺き重ね、黄金の3m程の鯱を上層両端に置いており、空に聳え日に映じて、衆人の目を驚かす。

慶長一九年(1614)末に本丸御殿が完成し、翌年義直と浅野幸長の娘春姫の婚儀が執り行われ、義直と春姫の御座所となった。やがて元和六年(1620)に義直らは二之丸御殿へ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿として利用された。寛永一一年(1634)の徳川家光上洛では上洛殿が新築され、狩野探幽が上段之間・一之間に「帝鑑図」、三之間に四面の襖絵「雪中梅竹鳥図」等を描いた。

尾張藩は徳川御三家の一つで、徳川義直は家康の九男、紀伊家・水戸家の兄にあたり石高も最高だったので、御三家の筆頭と称された。

空襲により焼失

明治維新の廃城令で多くが破却されたが、本丸御殿は政府により保存対象となり離宮とされ、昭和五年(1930)には名古屋市に下賜された。下賜後は国宝に指定され公開・保存修理が行われたが、昭和二十年(1945)五月、米軍による焼夷弾攻撃で焼失した。内部の障壁画は、空襲直前の三月末に取り外して城内の倉庫に運び込まれていたため焼失を免れ、終戦後に1,047面が重要文化財に指定された。

参考
愛知県史編さん委員会『愛知県史 通史編4 近世1』(愛知県、平成30年)
『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)


名古屋市中区本丸番
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