※正確な場所は不明
六里には大垣藩直轄の段木土場があり、三水川は六里・相羽・下方などで舟運が盛んになった。
大垣藩では根尾・北山筋の山方で米による年貢が困難な村々に対し、薪として用いる段木(つた)を年貢として課した。根尾筋の山で伐られた段木や材木は谷出しされ、丸太のまま狩流して山口の留所に一旦集められた。そこから更地留所、井川(段木川)、黒野留所を経て、六の里土場で狩揚げられた。やがて里方の大垣まで流送され、割木薪にする。
年貢の積出も行われた。『濃飛兩国通史 下巻』には下の相羽とあり、詳細な場所は不明である。
明治時代になっても、ここを起点に米・段木・薪炭等を大垣や桑名方面に売り出し、その帰り荷として大野地区の消費物質等を積んで戻った。やがて物資を売りさばく雑貨屋が生まれ、行商人の往来が盛んとなり、宿屋も増加した。
参考
『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)