郡上を分領していた両遠藤氏の郡上八幡城主左馬助慶隆、同小八郎胤直は、天正十一年(1583)三月岐阜城主織田信孝が柴田勝家と通じて秀吉に反旗を翻した際、信孝にくみした為、天正十五年(1587)秀吉によって加茂郡一萬三千石及び江州日野千石に封ぜられた。慶隆は小原(西白川村の内)に居て七千五百石を食み、胤直は五千五百石を食み犬地(蘇原村の内)に居た。のち、関ヶ原役では、東軍についた慶隆は上佐見の吉田に堡砦を構え、上ヶ根砦の西軍の胤直と交戦した。
旧領八幡城奪還の本拠とした。