西大路の南山にある。蒲生氏の居城である。

蒲生氏は陸原秀鄕より出つ小山判官朝氏の子・秀朝に始まり、蒲生郡に移った後、蒲生氏と称した。元亨建武の頃に、蒲生将監高秀という者がいた。

永正大永の頃、蒲生下野守定秀は六角氏に仕えた。永禄六年(1563)十月、六角義賢の老臣・後藤但馬守父子を誅した。その族土寇と乱を起こした。義賢とその子・義弼は定秀に頼って日野城に入る時に定秀の子・右衞門大夫賢秀は後藤但馬守の姉を娶った、乃ち離婚し、専ら六角氏を援けて遂に觀音寺城を復した。後、国務に参与した。定秀は老後に快軒と號した。

永禄十一年(1568)織田信長は六角氏を攻めた。義賢父子は城を棄てて逃れた。賢秀は性直にも六角氏の為固く城を守り、信長が人を遣わして招きを拒んだ。再び妹婿の神戸盛友を遣わすと賢秀は降伏した。信長はその子・忠三郎氏郷を召して侍臣とした。十二年(1569)八月の信長の伊勢を攻めた際は、氏鄕は先登して首級を獲った。信長はこれを賞し娘を氏郷に配した。

元亀元年(1570)信長越前を攻略した。氏鄕は潜かに従軍し敵首を得た。同年、六角氏の遺党が鯰江城に拠り、信長の京への帰途を待って擊とうとしたが、賢秀はこれを知り、信長を前導し千草越より伊勢に出させた。杉谷善住坊、山中で狙撃したが当らず。

天正十年(1582)信長と子・信忠が京都にて殺される。氏郷は信長夫人を日野に迎え、賢秀は安土城を守り悉く遺財を禄して守兵に托し、兵を募って明智光秀を討とうした。光秀は之を招く使者を罵り辱めた。織田信雄が鈴鹿山に陣すると賢秀はこれに属した。そうしているうちに、羽柴秀吉が光秀を山崎にて誅殺し、賢秀の勇武を賞して五千石を与えた。十二年(1584)賢秀卒した。

氏鄕は秀吉に属し嶺城を攻め、五月亀山城を賜ったが、関一政に譲る。この時、氏鄕は従五位下に叙し飛彈守となった。六月伊勢の松島城に封ぜられ十二万石を賜った。十五年(1587)西征の軍に従い、香春嶽を攻めた殊功あり。十六年(1588)四月正四位下に叙し左近衛少将に任じ、松坂城を築いた移る。十八年(1590)小田原役に韮山城を攻めて落とし、八月奥羽を征服して遂に会津城に封せられ四十二万石を領した。

会津にて秋の夜月色晴朗なり。氏郷潜然として涙が垂れる。傍の人が「今大封を受けて憂色があるのはどうしてか」と聞くと、氏鄕は「微禄といえども京畿に封ぜたれば、緩急の事に及ぶだろうが、今山川遼遠にして事に応じられず、わが心快々たるのみ」と。これより奧羽の諸寇を平げ、鎮撫に尽力した。十九年(1591)三月九戸の乱が起こり奥羽二州騷然としたが、遂にこれを征服し、秀吉は加増して百万石とした。十一月京都に入り従三位に叙し参議に任じた。

文禄元年(1692)征韓の役に那古耶行営に赴く時に会津城を改め若松城と称した。旧村蒲生郡に若松森があり、これを慕って擬したという。四年(1595)二月、瀉血を患い大坂に四十歳で卒した。辞世の歌あり

限りあれは吹か子と花は散るものを心短かき春の山風

秀吉はかつて氏郷の英武を忌み除かんと欲し世に毒殺したというが、その歌を見て他志なきを察し惜しんだ。

長子・秀行が封を承いで慶長元年(1596)秀行從四位下に叙し飛騨守侍従に任じた。三年(1598)正月、秀吉は会津百万石を奪い宇都宮に移封し十八万石を与えた。関ヶ原役後の六年(1601)八月、徳川氏が会津に復封させ六十万石を与えた。

十七年(1612)五月秀行三十歳で卒し、子・忠郷が嗣ぎ下野守侍従となる。元和九年(1623)従四位下に叙し中務大輔に任ぜられ、寛永四年(1629)正月忠卿二十五歳で卒した。弟忠知封を承けるが、会津を収められ松山城及び近江日野田二十四万石を領した。十一年(1634)八月忠知は三十で卒し、封除された。

参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)428-431頁

蒲生郡日野町西大路2855番地
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