大縣神社は二の宮とも呼ばれる。(一ノ宮: 一宮市の真清田神社、三ノ宮: 名古屋市の熱田神宮)

創立は弥生時代ともいわれ、始めは本宮山山頂に座していたものが紀元前27年に現在地に降ろされたと伝わる。本宮山は古代の神の山としてあがめられていた。山頂には元宮が祀られている。本宮山と尾張富士は背の高さを競い、神が両山に樋をかけて中心から水を流すと、尾張富士の方に流れた。そこで人々に山頂に石を積むよう頼んだのが「石上祭」が始まった由。毎年8月に盛大な祭りとなっている。

神社の社殿は一度全焼したが、尾張藩主徳川光友の寄進により再興された。本殿は「大縣造り」で国の重要有形文化財となっている。

また民話「山姥物語」が伝わる。ある日福富新造が山頂に住む山姥を弓で射ると、雷鳴が轟き、その姿がない。その血の跡をたどっていくと、小口村の小池弥三郎の家に着き、そこでは、女房の蒲団が血で染められていた。その後山姥は苧ヶ瀬の池へ逃げ、池の主となったと云われる。その息子は成長して母を弔うため徳林寺を建立した。福富新造は今も福富家の墓に眠る。

小牧長久手の戦いで森長可は大縣神社に陣を張った。長可は長久手で討死にした。長可によって城を落とされた肥田玄蕃に詳しい『肥田軍記』には、大縣神社に陣を張った神罰で目が霞んで沢田へ乗り入れ、とやかくしているうちに後ろから鉄砲で撃ち落とされたと書かれている。

毎年3月の第2日曜日に「豊年祭」が行われ、猿田彦の行列ができる。以前は田縣神社と同じ日(3月15日)に行われていた。猿田彦とは天照大神の命で、瓊瓊にに杵ぎの尊みことを高千穂へ導いた。みちをひらくことから学業や仕事をいい方向へ導いてくれるという言い伝えがある。


二ノ宮村にある。俗に二之宮大明神と称す。『延喜神名式』に大縣神社(名神大)と見え、『本國帳』に正一位大縣大名神と記されている。垂仁天皇二十七年の御鎭座で、天武天皇朱鳥元年(686)に勅により再建され、清和天皇貞觀元年(859)に修理が行われた。その後、星霜を経て、永正元年(1504)火災で焼失し、同十五年(1518)織田彈正左衞門平久長が再建し、やゝ旧観に戻した。それ以降も神威は顕著となり、諸人の崇敬は他と異なる官社である。

『續日本後紀』
承和十四年十一月癸亥朔癸酉。奉授尾張國無位大縣天神從五位下。
(:承和14年(847)11月11日。尾張國の無位の大縣天神に従五位下の位階を授け奉る。

『文徳實録』
仁壽元年(十一月辛巳。詔以尾張國大縣神列於官社。同三年五月辛亥。尾張國無位(一本從五位下)大縣神授從四位下。
(:仁壽元年(851)11月24日。詔を下して尾張國の大縣の神を官社に加えた。同3年5月22日、尾張國の無位(一本從五位下)大縣神に従四位下を授ける。

『三代實録』
貞觀元年二月十七日癸卯。授尾張國從四位下大縣神從四位上。同月十九日乙巳。遣正五位下守右中辨兼行式部少輔大枝朝臣音人。向尾張國大縣神社。奉神位記財寶。同十五年八月十三日乙巳。授尾張國從四位上大縣神正四位下。
(:貞觀元年(859)2月17日。尾張國従四位下の大縣神に従四位上を授けた。同月19日、正五位下守右中ならびに兼行式部少輔大枝朝臣音人を尾張國大縣神社に遣わして、神位記財寶を奉る。同15年八月十三日。尾張国従四位上の大縣神に正四位下を授ける。

本社 祭神國狹槌尊・活目入彥五十狹茅天皇・國常立尊・豐斟渟尊を合祀する。

瑞籬 廻廊 祭文殿 拜殿 舞殿 御供所 御井 祭庫 鳥居。

別宮三名神社 本社の東山上にあり。祭神豐斟渟尊。『本國帳』に正一位三名神と見える。同書に

従三位田宮天神とあるも、当社の攝社だったが、中世に廃して旧跡のみ残る。

末社神明社 本社の西。祭神天照皇大神宮。

戸坂若宮社 同所。祭神景行天皇。

多賀社 同所。祭神伊弉册尊。

中宮社 同所。祭神天御中主尊。

辨財天四社 同所西のかた。

毘沙門社 本社の東。

大黒社 同所。

白山社 同所。祭神菊理姫命。

瘡神社 同所。祭神倉稻魂命。

神宮寺社 同所。

妙見社 同所。祭神建稻種命。

伽藍祭社 同所。

例祭 八月一日、兒山一輛・人形山二輛を出す。九月九日、流鏑馬・笹踊等がある。当社は古くから大社で、年中の祭事は多く、田打祭・清祓鳥喰神事・祈年祭・新嘗祭・大和舞・鎭座祭・奏樂・傘廻等は特に大祭であったが、今は悉く廃絶して、近村に供祭田等の旧号で字のみ多く残る。

神領 むかしは楽田村にて四百八十町あったが、乱世に廃絶し、天正十年(1582)信長公の神領の證状には、大いに減少し、慶長五年(1600)・元和八年(1622)・延寶二年(1674)等、藩主より追々の御寄附があり、今なお神祭の用途及び祠官等へ配分される。

神主 むかしは大荒田命の裔孫爾波縣君が司っていたが、その後は明らかでない、中昔から尾張氏の重松と称する家が代々奉祀し、暦仁元年(1238)十二月の尾張國諸社神領廳宣に、「左衞門尉尾張俊村假名重松分。一乘寺保三十七町六段」云々とある。そのほか、祠官は成時氏・元方氏・稻吉氏・常吉氏等数十家、神官・中臈・神樂座・神子数人ある。

社僧 小西山眞長寺といい、眞言宗、美濃國可兒郡兼山村清龍寺の末寺なりしが、今廃す。本尊は当国三十三観音の一つで、今は村内の小堂に安置している。


『鹽尻』(最低限の現状語訳を加えています)

我が尾州の二の宮が栄えていたときは、境域も広く祭祀も盛大に行われていたようだ。大縣宮地打越明神の傍の、字針とよぶ地に勅使宿館の跡がある。往古の神主の宅地がここにあったという。御休という地が、二の宮と楽田の間、道の北にある。祭祀の日の、神輿御幸の地であったという。そこから西に二の鳥居の跡がある。宮地からこゝまで五町ほどである。これは近い範囲とみえる。しかし、一の鳥居の跡は青塚にある。(楽田村で、二の宮より一里程南)これは遠い範囲だろう。この辺りに舞臺とよぶ田がある。むかし舞台があった所という。楽田村の名もこれに由来するという。凡そ楽田のうち、田の字に御供田・直會田・注連切田・燈明田・經田等の名がある。また傘廻田と呼ぶ地もある。神事で、傘をさして付いて回った事があった。その米を出した所といふ。また東方の山岳に西福寺・浄福寺・眞蔵寺・不動寺・小西寺など呼ぶ所は、往古は供僧の役所という。小西寺の舊跡塔の壇の名も、今も残る。…

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市宮山
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