厚見郡、市場という所にある。
斎藤帯刀左衛門が開基(築城)し、その後土岐代々の舊臣の安藤氏が住んだ。安藤民部守利の長子の伊賀守守龍が城主に任じられた。二男の五郎左衛門守宗は、土岐氏の砦の城・加留美の要害に居住していたが、元亀二年(1571、辛未)五月十二日の夜、大田村七屋鋪という所で氏家卜全とともに討ち死にした。舍弟七郎左衛門守之は、芝原北方の要害を自ら構えて居を置いた。同族の国枝大和守守房は、池田郡本郷村に居住した。明應四年(1495、乙卯)七月五日に逝去し、法名は宗椿という。加藤左衛門尉光長は黒野に居住した。これはみな藤原守長卿の末孫で、土岐氏を護る重臣であった。
土岐氏の舊臣のなかでも、安藤と稲葉を第一とする。稻葉氏は藩屏将軍・伊予三位の末裔で、伊予の国の住人である。稲葉七郎通高は、康暦(1379-1381)の頃、細川武蔵入道常久に敗れて美濃國へ落ちのび土岐の臣となった。軽海長勝が開基した空き城を修補し、代々この場所に住んだ。稲葉元塵の『考國記』に、「己が館は糸貫、六の二川を受けし要害」と記されている。元塵は應仁二年(1468、戊子)に御座野村遠見山に要害を構えて移り、子孫は繁昌してあちこちに住む。稲葉備中守越智通則六男が伊予入道一鐵で、法名「淸光殿前豫州太守三位法印一鐵宗勢居士」、 天正十六年(1588)十一月十九日に逝去し、大野郡清水の長良山に葬られた。
秀吉の頃、石河駿河守光清が居城した。小牧長久手の戦いの時に◎犬山城主だった石河備前守の一族、尾張石河氏の祖である。なお同地の乙津寺の中興に関わったのは光清である。
参考
『美濃明細記 巻第十三 茂々久岐根付録』(伊東実臣、元文三年-1738)