犬山から運ばれた二枚連結の筏は、12枚連結に組み直され、4個縄で繋がれて川を下り、民材は桑名へ、官材は海送されて白鳥貯木場へ流送された。
豊臣時代には鵜沼村に河村惣六という筏乗り頭がいて、その配下が犬山から乗り継いだ。徳川時代には犬山の鵜沼屋長蔵の配下が乗り継いだ。
犬山からの筏の半分は円城寺湊で集結し、大きく組み直されて犬山の筏乗りが白鳥まで直送した。残り半分は円城寺湊まで犬山の筏乗りが乗り下げ、円城寺奉行野々垣源兵衛の配下が乗り継いだ。明治以降は犬山から白鳥までの直行はほぼ廃止され、円城寺での乗り継ぎが常となった。
円城寺奉行の野々垣源兵衛は、祖先が秀吉の微賤の頃から親交があり、秀吉が天下統一後に召し出され、木曽川の筏運送を支配することとなった。一九世紀中頃の円城寺役所の留木裁許の管理区域は、鵜沼村から福江村(現海津市)までと、長良川の上河和村(現美濃市)から小瀬村(現関市)までであった。
犬山から運ばれた12枚の筏は円城寺綱場で1枚の大きな筏に組み直される。1枚の大筏は2人の筏乗りが扱い、8人一組で大筏4枚(計48枚)を下流に運ぶ。犬山の筏乗りは夜明けに出発し、午前9〜10時頃に円城寺綱場に到着。午前中に組み直し、笠松湊の上(名鉄鉄橋の下)まで筏を下げ、半月分の食糧と燃料を購入し、翌朝「送り状」を持って出発した。食糧は米、味噌、タマリ、青物など。
民材は桑名へ、官材は白鳥へ運ばれたが、量は民材の方が多かった。白鳥までの流送には通常10日〜半月、沖が荒れると1ヶ月近くかかった。桑名までは1週間〜10日で到着可能だった。
筏は川の流れの道(ミヨ筋)を読みながら進む。先頭が導いても、後続の筏が浅瀬に乗り上げることがあり、その際は他の筏乗りが自筏を固定し、舟で「テッタイ」(手伝い)に来た。竹竿やつなぎ棒で深い所へ誘導しようとしたが、それでも無理な場合は若者がサルマタ一つで冷水に入り、腰まで浸かって足を真っ赤にしながら筏をこねた。これが最も辛い作業だったという。
筏流送の仕事がなくなると、松原島渡や嘉左衛門島の筏乗りたちは木曽川や河原で砂利を採る「ジャリコシ」で生計を立てるようになった。この地域では「船頭もやれんようなモンは、一人前じゃねぇ」と言われ、小学校卒業後はほとんどの子供が舟の仕事に就き、中学校や女学校に進学する子供はごくわずかだった。
木曽川から採取した砂利は笠松の問屋や葉栗郡北方村宝永に運ばれた。例えば明治4年生まれの川瀬松一氏は、午前中に木曽川で砂利を採り、弁当後に宝永へ二枚腹で下った。土手に上げた後はナカセが砂利を貨車に積んだという。やがて木曽川の砂利は採り尽くされてしまった。
参考
大矢兼成、加藤鐐三、蟹江猛、佐々木焏三、森留吉『筏』(日本いかだ史研究会、昭和54年)100、101頁
松田千晴『昭和初期・川島町渡町の筏と生活』(川島町ふるさと史料館、平成十二年)