可児郡明智の庄、長山の城主のこと、一説には池田の庄、明智の里などともいわれるが、実際は明智の庄であろう。明智の城のあった所を長山といい、これは字名であろう。
そもそも明智城というのは、土岐美濃守光衡から五代の嫡流である土岐民部大輔頼清の次男、土岐明智次郎長山下野守頼兼が、康永元年(1342)三月に初めて築いて居城としたことに始まる。これより光秀に至るまで、子孫代々ここに拠った。
頼兼の兄を土岐大膳大夫頼康という。頼康は、その叔父・頼遠の没後に惣領職となって将軍尊氏公より美濃・尾張・伊勢三ヶ国の守護職を賜り、その武威はたいへん盛んであった。また頼兼の弟・土岐揖斐三郎新蔵人出羽守頼雄は、大野郡揖斐の城を開基した。
さて明智頼兼は、兄の頼康とともに足利将軍尊氏・義詮の父子両公に属して南朝の官軍と戦って数々の武功を挙げた。ちょうど兄・頼康の威勢が盛んで、頼兼もまた武威と名高く近国に知れ渡り、東美濃を守護して家は富み繁栄した。貞治六年(1367、丁未)年十二月十二日、将軍義詮公の逝去に伴い出家し、善桂と号した。嘉慶元年(1387、卯)七月十六日、没す。享年七十一歳。法名は真誠寺殿前野州太守二品法印善桂。頼兼の初めの妻は尾張民部少輔高国の娘で、後妻は二木右京大夫義長の娘であった。
頼兼の子は明智小太郎といい、のち長山遠江守光明と号した。将軍義詮公の命を受け、従兄弟・頼兼の猶子となって明智家の惣領職を継ぎ、その家名を相続した。この人は智謀や軍略に長け、勇猛絶倫の士であった。身の丈高く七尺八寸(約236cm)、無雙(:並ぶ者のないほど)の大力で、打ち合いの達人であった。その頃、五畿内・東山・北陸において無雙の大力と言われた。北朝に属し、武功の名誉は数回あり、その誉れは書き尽くしがたい。
殊に文和二年(1353、癸巳)六月九日、京都四条河原の戦において、すこぶる名誉があった。南朝方の官軍である吉良、石堂、和田、楠、赤松などの諸将は、山名時氏の勢と合流し京都へ押し寄せて、四条河原に陣を敷いた。この時、北朝将軍方には、大将・足利宰相中将義詮朝臣、細川清氏、土岐頼康、佐々木佐渡判官らがあり、神楽岡に陣を置いて河原へ出て合戦した。ちょうどこの頃、足利尊氏公は鎌倉にあり、都の北朝方は思いのほか無勢であり、一戦に利を失い、京都に留まれず。義詮朝臣は帝をお守りして、東坂本へと落ち延びた。官軍は大いに勇み、少しも隙を見せず後に迫り、しきりに襲い掛かってきたため、味方の退却に難儀していた。
その時、光明ただ一騎、並み居る軍勢の中からあえて引き下がり、しんがりを務めて比類なき勇戦を尽くし、帝を安全に落ち延びさせたのだった。この時光明は、洗革の鎧を着て、鹿角の前立に龍頭を据えた六十四間の星兜をかぶり、五尺九寸(約179cm)の太刀(関の住人金重作)、五尺三寸(約161cm)の添指(志津兼氏作)の二振を携え、また刃渡り一尺六寸に打たれた関鍛冶の大鉞(まさかり/斧の一種・柄の長さ七尺二分)を持って数多の敵を打ち崩したという。その働きは並の者の所行でなかった。播磨国の住人・赤松弾正少弼氏範と討ち合いでは、互いに大鉞を引き合い、やがてその柄を半分より二つに切って、互いに離れたという。のちにこの両勇士の勝負を論じた際、光明の勇力が遥かに勝っていたといわれた。なるほど、赤松は刃の方を持って力を込めやすく、踏ん張りが利く状態にあった。一方、光明は柄の方で、滑る手が外れる事があったという。このように光明の振るまいや武功は、記せばきりがないほどである。
この度の勲功について、主君はじめ義詮朝臣は殊のほか感じられ、一通の御感状に九頭龍の星甲を添えて授けた。この光明より六代の孫を明智作十郎光継という。のちに駿河守、入道して宗善と号した。文明より大永(1469-1528)の頃の人である。
光継には子息が多くいた。嫡子を十兵衛尉光綱(のち遠江守、日向守光秀の父)、次男を山岸勘解由左衛門尉光信(大野郡府内の城主である山岸加賀守貞秀の養子)、三男を明智兵庫頭光安(のち入道して宗宿、明智左馬助や三宅第十郎らの父)、四男を次左衛門尉光久(明智治右衛門光忠の父)、五男を原紀伊守光頼(関ヶ原の合戦で討死した原隠岐守久頼の父)という。娘は斎藤道三の妻となり、その娘たちは織田信長および金森五郎八郎長近らの妻となった。六男は明智十平次光廉(のち入道して長閑斎、十郎左衛門光近の父)である。
遠江守光綱が家督を継ぎ、明智に住み、代々の知行一万五千貫(江戸中期の七万五千石にあたる)を領した。大永元年(1521)の春、山岸加賀守貞秀の娘を娶ったが、光綱は日頃より病がちで、天文七年(1538、戊戌)八月五日に没した。そのとき嫡子・光秀は、わずか十一歳と幼少であった。そのため祖父・光継入道の命により、叔父の光安・光久・光廉の三人が後見となって光秀をもり立て、城主とした。しかし光秀は生まれつき凡人と異なり、幼少より大志を抱いていたためであろうか、明智の城主としてわずか一万五千貫の所領を受け継ぐことを望みとせず、家督を嫌って居城を叔父に任せ、その身は遊楽(放浪の身)となって武術鍛錬のために諸国を遍歴したのだった。
そうしたところ、当国美濃の守護職・斎藤左京大夫義龍は、実父・頼芸の仇のため、養父・道三との父子の義を断って合戦を始め、弘治二年(1556、辰)四月、方県郡城田寺村にてついに道三を討ち取った。義龍は一国を領有して一色左京大夫と改め、稲葉山城に拠った。道三の長年にわたる不義は人々がみな憎むところであり、その合戦には多くが息子の義龍に味方し、道三のもとへ馳せ参じる者は稀であった。
さて明智兵庫助光安入道宗宿は、かねてより道三に尊敬され、常に厚情を尽くしていた。もともと宗宿の妹は道三の正室であって、早くに亡くなったといえ、一度縁者の契りを結んだ間であった。もっとも宗宿はもとより立派な勇士であり、道三の威勢を慕ったわけではない。親族の義父・駿河守光継入道宗善の存命中に、道三がこれを望み、旧守護・土岐頼芸に申して縁を結んだものであった。大志を抱く道三にとって、明智の家は片方の盾であり、常に礼を厚くして、厚情を尽くした。そして尾張国の織田氏を他国との垣とし、娘を信長に嫁がせた。これらはみな、大志を秘めた下心であった。
やがて弘治二年(1556)の春になり、子の義龍が義兵を挙げて合戦に至ると、国中の諸士らはみな道理をただしてことごとく義龍の陣営につき、道三側は微勢となって、たちまち勢力は衰え、戦う前から道三が打ち負かされることは必然と見えた。このとき、宗宿思うに
「某(なにがし)、この度の合戦こそ、いずれも加わりがたし。道三は頗る逆臣なれば、これを誅するは理の当然たれども、日頃我を重んじ厚情を尽くすこと、言葉に述べがたし。その下心のほどは、身のうえ難儀のことがあらば頼むべきとの会釈なり。既にいま、大事の期に及べり。某、恩情に心を引かれて(道三に)傾くるにはあらざれども、彼が衰へたる時節を見て、無礼にこれを攻め討つのは、大丈夫の所為にあらず。また義龍、実父の仇を討つと号して義兵を挙ぐるに、某、道三に与力(協力)してこれと戦わば、土岐・明智の先祖代々に対して大不孝と言いつべし。これ故に両儀決せず、いずれも加わりがたし。併せ某は進退極まれりといえども、甥の光秀は当家の真嫡なれば、この一人は義龍のもとへ参らすべし」
とし、光秀のみを稲葉山へ遣わした。さて、弘治二年(1556)鷺山の合戦が終わり、道三が討たれた後は、道三一味の面々はことごとく討死し、残る輩もみな義龍に降参して国中はようやく平定された。
そうしたところ、宗宿は一向に出仕しなかった。つくづく思うには、
義龍に義兵の大儀名分があったとはいえ、道三は今の養父であって母の胎内にいた頃からの恩はたいへん深い。また先の守護・頼芸には、正室との実子が数多くある。長男の一色小次郎頼秀は尾張におり、次男の左京亮頼師もまた当国美濃にいるゆえ、彼らによって義兵を挙げたのであれば実に忠義であり孝心であるといえよう。しかし今や既に義龍の代となり、我もまたこれに従うのであれば、世の人々から憎まれ、宗宿と親密であった道三を助けもせず、また合戦の際には義龍にも与せず、命を惜しんで日和見を決めこみ、勝負を眺めてどちらへも出馬せず、戦が収まって義龍の代となったのを見てたちまち身を寄せた、などとあざけり笑われるのも口惜しきことであった。特に某は道三から尊敬を受けていた身であるから、人々の心には道三を贔屓しているように見え、義龍はじめ皆が我が心中を疑うのは必至である。所詮、このまま生き永らえて、人々の噂の種として残るのも残念である。
速やかに当城に立て籠もり、華々しく討手の勢を引き受けて討死し武名を残すことこそ本意である。そうでなくとも私と道三は同腹でもあるのかと皆が疑っている折であるから、城に籠もって出仕しないと言えば、たちまち討手が寄せてくることは必至である。某が潔く死んだならば、義理ある道三のために道義が立つというものだ。主家の道三への恨みは心にあれど、妹の夫という名分があり、厚情はなおさら甚だしい。某は五十歳を越えて惜しくもない命をひとつ捨てかねて死に迷い恥ずかしい名を取るくらいなら、清和天皇より二十一代の血脈を保ち、これまで汚名をつけなかった明智の一家に、我のみによって悪名をつけ、末代まで恥辱を残すことは無念である。早く義龍側へ手切れの使いを送り、一族を集めこの城に立て籠もり、討手が来れば思いのままに戦って、屍を大手の城門にさらし、本丸に墓を残すべし、
と思いを定め、討死の覚悟を決めたのだった。
時に弘治二(1556)年九月。一族を集め、明智城に立て籠もった。大将の宗宿は五十三歳、同次左衛門光久は五十歳であった。その弟・十平次光廉は尾張にあり、これを知らなかった。従う一族らは溝尾庄左衛門、三宅式部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由をはじめ、その手勢わずかに八百七十余人であったが、義心は金石と固まり、心一つに籠城したのだった。さて、この子細が稲葉山に聞こえると、斎藤義龍はたいそう驚き、「早く誅せずんば、東美濃過半、これに従ふべし」と、直ちに討手を差し向けた。
その時、揖斐周防守光親が義龍を諫め、「明智宗宿、古今の義士なり。名を重んじ、叶わざるを知って籠城するは、大丈夫(真の武士)の振る舞いなり。ただ速やかに利害の使者を送り、平に(ひたすら)帰伏の申しなだめ然るべし」と言ったが、義龍は血気にはやる破将であり、これを用いずただ攻め討ちに決した。
ここにおいて、揖斐はやむなく討手に向かった。その陣容は、長井隼人正道利、井上忠左衛門道勝、国枝大和守正則、二階堂出雲守行俊、大沢次郎左衛門為泰、遠山主殿助友行、船木大学頭義久、山田次郎兵衛、岩田茂太夫らを先鋒とし、その勢三千七百騎。九月十九日、稲葉山を出陣し、明智を目指して押し寄せた。宗宿は少しも恐れず、ここを最期と決めて防ぎ戦った。もともと城は要害堅固で、落とせる隙もなく、攻めあぐねて見合わせているうちに、その日はすでに暮れてしまった。
翌日、討伐軍は再び鬨を上げて攻め寄せたが、宗宿は前夜から酒宴を開き、一晩中謡い舞って死出の盃を交わしていた。翌日、城外へ打って出て思いのままに一戦し、早々に城に入り、その日の申の刻(午後四時)、本丸の中央に火をかけ、ことごとく自害して果てた。康永元年(1342、午)に明智城が開築されてより215年にして、今日ここに断絶することとなった。
さて嫡子・光秀はこれまでも城中にあったが、宗宿が光秀に言ったことには、
「我ら生害(自害)せんと存ずる。御身、さだめて殉死の志なるべけれども、某らは不慮の儀にしてかくなり、家を断絶す。御身は、祖父の遺言もあり、また志も小ならねば、何卒ここを落ちて存命なし、明智の家名を立てられ候へ。ならびに我々が(の)子供らも召し連れて、末々取り立て給わり候よう」
これによって光秀は死を思い留まり、城を脱出して西美濃に至り、叔父の山岸光信のもとにしばらく身を寄せた。ここに妻子ならびに従兄弟たちを預け、それより六年の間、諸国を遍歴して武術の鍛錬を行い、それから永禄五年(1562)に越前の太守朝倉左衛門尉義景に仕官し、その後、同十一年(1568)の秋より足利新公方義昭公の推挙によって織田信長に仕え、のちに六十万石余の大名となった。
光秀には子が数多いた。嫡子を作之丞光重という。母は山岸勘解由左衛門尉光信の娘で、千草という美婦であった。光秀が部屋住みであった頃、旅の客となって山岸のもとへ来て、桂の郷の下館にしばらく住んでいたが、ともに若年の頃であり、密通して設けた長男である。これによって明智氏の家督を継ぐことはなく、氏を名乗るのを憚り、母方の氏を用いて西美濃に住み、子孫は郷士となったのだったのだった。次の子は女子である。この母は妻木勘解由左衛門範熙の娘で、正室となった。この女子は明智左馬助光春の妻となった。次の女子は同治右衛門尉光忠の妻となった。次の女子は細川越中守源忠興の妻となった。次の女子は織田七兵衛尉平信澄の妻となった。信澄は織田信長の弟・武蔵守信行の子である。次は男子で明智千代寿丸という。のちに十兵衛尉惟任光慶といった。次の男子を十次郎光泰という。次は乙寿丸という。ほかに養女があり、盛姫という。嫡流の光重の妻となった。実はこれは土岐要(蔵)人助盛秀の娘である。古今まれに見る英婦(英邁の女)で、光秀や光重に先立たれてのち、自ら大義を抱いて諸国の大名たちに働きかけ、羽柴の世を傾けようと欲したほどの烈婦であった。またほかに妾腹の男子があり、子孫は細川家にあるという。実は左馬助光春の一子であるともいう。また一人男子があり、丹波国桑田郡にその子孫がいるという。
さて明智の城は、弘治二年(1556)に落ちて以後、守将はなかった。斎藤が滅び、織田の支配となり、また光秀の先祖代々の旧跡であるということで拝領し、家臣の石森九郎左衛門を代官として置いたのだった。地形のみで、改築はなかったという。
参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より