金山城は家紋の鶴の舞う姿を天守閣に再現した。破城となった後「金山越」といって、木材は全て木曽川を筏で犬山まで流し、移築された。現在の◎犬山城が日本最古国宝第1号となった由縁である。
西方中山道の幹線は、信濃、尾張、飛騨に通ずる交通監視の要衝であり、軍事上の重要拠点であった。東方は遠く恵那山系を望む。木曾川舟航のもたらす輸送上の価値も、重要な要素だった。
西方を望む。手前と奥の「く」の字に見える川は木曾川で、手前は中山道から来た木曾檜を搬出した兼山湊、奥は中山道の太田の渡し。奥の川の近くの山の向こうに犬山城がある。また右側の一番薄く遠い山影のとんがっているのが伊吹山で、その手前の山影が岐阜城のある金華山辺りである。
東側を望む。ダムが見えるが、ここの引き込み口から知多半島へと続く工業・農業用水の愛知用水が始まる。その奥の薄っすらと見える雪を被った山は御嶽山である。
自然の石を加工せずに積む野面積の石垣が残り、石垣の裏側には排水の為の裏込め石が詰められている。角は強度を増すために長方形の石を積む算木積。城の出入口で、桝形虎口(方形の入口)。周囲を石垣で囲い敵が侵入した場合、三方から攻撃出来る。右に折れているが、右利きの敵兵の防御が薄い左側から攻撃出来るようにしている。
金山城天守は、安土築城と同時期に作られたとみられる。天守が主殿望楼型から層塔型へと変化する過程において、その原型の一つとされている。この邸館天守は、天守と小天守(主館と副館)の複合形態で、副館の床下には穴蔵があり、天守台の東側の約1.7メートルの石垣の上に建てられていた。
金山城の起源は天文六年(1537年)に斉藤正義が鳥峰城を築いたことに始まる。正義は、関白・近衛槇家の庶子(正妻でない女性から生まれた子)だった。父・植家は家臣の瀬田右京に付き添わせ、正義を京都比叡山の恵心院に上らせて出家させようとしたが、正義はもとより武芸を好み、瀬田右京はこれを拒むことができず、正義は比叡山を下った。家臣・瀬田右京の生家は可児郡瀬田にあり、彼の姉は斉藤道三の愛妾であった。この縁から、道三は正義を養子に迎え、斉藤正義と称した。正義は天文元年(1532年)に十六歳で元服し、日根野備中守弘就の戦に従い、手兵三百を率いて初陣を飾った。
道三は勢力圏の東濃の足がかりとして、古城山の頂上に「掻上げ」の城を築いた。掻上げとは簡易な防塁のこと。その後、正義は天文六年(1537)に規模を拡張し、鳥峰城とした。天文八年(1539)に正義が画工に命じ自らを描かせた画があり、恵那郡岩村大円寺の住僧明叙和尚の賛がある。
天文十七年(1548)二月、正義は可児郡久々利城主の土岐三河守に花見に招かれ、宴もたけなわ「かわや」に立ったところを謀殺された。正義は三十三歳で、◎海潮山浄音寺にて葬られた。そして、正儀を討ち取った三河守は、手勢五百余を率いて鳥峰城を急襲、落城させた。土岐氏は一族の土岐十郎左衛門を留守代に置いた。
養子が殺された道三はこれを静観する。『金山記』には「正義自ら高位に昇り、かたがたもって入道(道三)をないがしろにす。その後父子の間に不和になりける。然れども江州(北近江、浅井亮政)と尾州(尾張、織田信長)の大敵に対し物騒なりければ、金山に兵を働かしむること出来がたく」と記されている。道三と名門近衛家の血筋を引いた正義は不和となっており、道三が配下の三河守を動かして正義を謀殺したとも考えられる。
永禄八年(1565)九月、信長は◎堂洞・◎関城攻略後、鳥峰城に東方計略の拠点を置き、森三左衛門可成に守らせる。可成は、信長の尾張平定や桶狭間の戦い等に参加し、美濃攻略の戦功を挙げた。元の城主・土岐三河守は斎藤氏に従っており、鳥峰城修復を条件として許され、久々利城本領を安堵された。可成は羽栗台蓮台村から一族・家臣を率いて入場し、「金山城」と改めた。
元亀元年(1570)、朝倉・浅井勢との戦いで可成は没し、十四歳の長可が継いだ。初陣の元亀三年(1572)長島攻め、天正三年(1575)長篠の戦、岩村攻略に従った。戦後、織田信忠の仲介で池田信輝の娘を妻とした。天正十年(1582)の武田攻めでは戦功が大きく、特に高遠の攻略で武功を挙げ、同年五月に武田勝頼が破れると、北信州を与えられて◎海津城に移った。
しかし、同年六月、本能寺の変が起こると、急ぎ金山城に帰った。可児郡、土岐郡、郡上郡と攻め収め、天正十一年(1583)には秀吉から金山の城邑十万石をもらい、さらに遠山氏を恵那郡から追い、苗木、明智含め十二万石を領した。詳しくは╱森氏東濃経略。
長可は天正十二年(1584)、╱小牧長久手の戦いで秀吉に従ったが、長久手にて討死にした。時に27歳。その後、弟の右近大夫忠政が遺領を受けた。文禄(1592-3)慶長(1597-8)の二回の秀吉の朝鮮征伐では、美濃の諸侯も従って金山侍従森右近太夫忠政は二千三百人を派遣した。(『濃飛両国通史』)
慶長五年(1600)二月、忠政は信州川中島に国替となり、金山及び金山城は◎犬山城主石川備前守光吉に与えられた。天守は勿論諸櫓、城門その他侍屋敷に至るまで解体され、古材を筏に組んで木曾川を狩り下し尾州犬山に移築された。
兼山が元和元年(1615)八月に尾張藩領になり、古城山は藩有林となった。
天明二年(1782)四月、◎太田代官所が設置されて以来、ここで管掌し、山守等は代官所に於て進退せしむることとなった。美濃飛騨山林制度取調書によると、「旧名古屋藩代官村瀬八郎右衛門曰く、同藩美濃国村々に同藩より保護の為めに設けし禁伐林無し、但し、有名の古城山は藩林とし、伐林を禁じ保護を加う。是蓋し武備の要地として、非常の予備に供せん為か」とあり、古城山は留林であり、不入山であって、藩林盗伐等の者仕置定があった。その為、村人は勿論他村の人にも入山するものがなかった。
明治四年(1871)廃藩置県となり、藩林から官林、国有林となり、昭和二十九年(1954-戦後9年)四月一日登記完了し、兼山町林となった。
参考:
兼山町史
『中津川市史 通史 上巻』(中津川市、昭和四十三年)635頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)28頁