以下は『武功夜話』を参考にしているが、偽書疑惑もあり詳しくは
「武功夜話」問題に於ける、私の想い。 =すべては、「生駒吉乃」という名が物語る=
を参照頂きたい。ここでは参考のため載せている。あくまでも小説として捉えて頂きたい。

永禄3年(1560年)、信長は佐々成政や佐久間信盛に墨俣築城を命じたが、斎藤勢の抵抗により撤退した。その後、信長は小牧城を築き、犬山城や堂洞関城を攻略した。そして永禄9年(1566年)、木下藤吉郎に再度の墨俣築城を命じた。

藤吉郎は今回の築城において、土塁だけの守りではなく、馬柵や鹿垣を設置して防御を強化すれば成功すると判断。蜂須賀小六や前野将右衛門、坪内党らに協力を要請した。藤吉郎の弟、小一郎は「失敗したときは一命は無いものと兄者は覚悟の上」と訴え、小六らは協力を約束した。

七曽、八曽の山から城材を切り出し、木曾川を経て下流の草井で陸揚げし、松倉で製材を行った。総勢2140名の内、信長に提供された鉄砲隊75名と、大半は蜂須賀小六をはじめとする土豪集団だった。これを材木切り出し・運搬・築城のための資材部隊と、道具・食料確保の戦闘部隊に分けた。また、稲葉山城下には山伏や行商人に変装した乱波(スパイ)を送り込み、「北伊勢攻めの準備」という情報を流した。

9月12日未明に出発。藤吉郎率いる鉄砲隊と前野・蜂須賀党の戦闘部隊が木曾川を渡り、稲田大炊介率いる資材部隊は木曾川から境川へ資材を移し、川舟・田舟に積み替え、手綱で引きながら境川を下った。一部の短材は兵が小熊村まで運び、正午過ぎには墨俣に資材が集まった。

斎藤軍の攻撃を受ける中、馬柵作りは正午過ぎから始まり、築城は夜通し続けられた。翌日の夕刻には馬柵と櫓が完成し、14日の約3時間に及んだ斎藤軍の攻勢も退けた。そして15日の朝、信長は1500の兵を率いて墨俣城に入場した。

夜間に築城工事が行われ、白壁の代わりに麻布を使用したため「一夜城」と称された。藤吉郎は足軽鉄砲隊の組頭から墨俣城の城代となった。

翌年、永禄10年(1567年)、信長は5000の尾張勢と3000の藤吉郎率いる墨俣勢を挙げて稲葉山城を攻略した。城主斎藤竜興は逃亡し朝倉氏のもとに向かったが、天正元年(1573年)の一乗谷の戦いで朝倉氏と共に斎藤氏は滅亡した。

大垣市墨俣町墨俣
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