御供所村にある。堀尾中務少輔吉久の嫡子で、幼名を仁王丸といい、その後小太郎又茂助と改める。生まれつきおとなしく、愚であるかのように柔和だったので、仏茂助と呼ばれていた。秀吉公に属し、若年の時から、戦場で譽をとる事数度、後に神君(家康)に仕えて更に戦功を重ねる。

さて秀吉公がいまだ木下藤吉郎といって信長公の御馬廻だった時から、小太郎を扶持し所々の戦場へも召し連れられた。その頃、近江の住人浅井備前守長政が、主人の佐々木の御所を追い出し、江州(近江)を押領した。さらに信長公を滅ぼし、美濃・尾張を領しようと、江州横山の城から出たと聞こえたので、秀吉は急ぎ信長公の居る濃州(美濃)岐阜の城へ小太郎を遣わして、その旨を注進させた。その帰路、直接横山の城に向かい、浅井の斥候の兵の首を取って秀吉公に献じ、秀吉大いに喜び、岐阜へ召し連れ、信長公にこのことを申せば、信長公はたいへん感じられた。「藤吉郎は名誉の若者を持った。このもの若年にして、敵数万騎の中へ只一騎馳せ行き、あまつさえ斥候の兵を討ち取り、首尾よく帰って来た事、誠に無雙(むびょう=比類なき)の勇士である、今より信長に仕えて、なお忠勤を励むべし」と言って、腰物(武具)を賜った。さて、浅井久政・長政は、江州虎御前山・小谷の両城にあり、往来の道路をかため、猛威を振るう。その頃、信長公は朝倉義景追罰のため、越前國に向かっていた。浅井父子が朝倉と内通し、前後から挟み、信長公を討とういうことを聞き、直ちに引き返して、天正元年(1573)八月虎御前山の城へ寄せた。この時浅井父子は、信長公と秀吉に攻められ、身の置き所なく、終に自害する。この合戦に比類なき高名が三度あり、このとき信長公より感状、 秀吉より持槍を賜る。

同三年(1575)五月三州(三河)長篠合戦に、小太郎は武田家の村岡彌太夫を討ち取り、それより藤吉郎は受領され、從五位下羽柴筑前守となり、小太郎(十七歳の夏)は茂助と改める。その後、但州(丹波)尾白山の合戦に、先手を望み、強敵と渡り合い、互いに太刀で戦ったが、両人ともに傷を負った。これを見て津田小八郎が馳せ来て、助太刀しようとする。茂助は七箇所、手負いながら、大に怒って、津田殿の力を借りるべきいわれなし、そこで見物しなされと言うより早く、件の敵を切り伏せた。その他、播州(播磨)三木の付城洞ヶ峯の戦では、同州かうつき(高月)の城の後巻(落城の後始末)の時も大いに名を上げる。同八年(1580)三木城の軍には、先陣を勤めて百練千練(数多の経験)の勇を震い名を馳せる。 この時、信長公より感状・御持鑓を下さる。同十年(1582)秀吉が備中で毛利と戦った時、 すくも山の城へ夜中忍び入り、手勢によって攻め落とし、同州高松城水攻の時は、堤千町余りの所を、僅かの手勢ですみやかに成就し、同年信長公横死(本能寺の変)の後、秀吉公に従い、山崎合戦で、一人当千の勇を振るう。同十一年(1583)柴田勝家滅亡のときも、例の十文字鎚を持って馬上の働きは、目を驚かせた。

同十二年(1584)尾州長久手合戰に、秀吉公が龍泉寺を退いたとき、殿(しんがり)を務め大いに戦う。その年の濃州竹ヶ鼻城攻めの時、南の砦を責め取り、これによって従五位下帯刀とする。同十八年(1590)相州小田原陣山中の城の攻め取ったのときも、苦戦して首級数多得たので、秀吉公は大に感じ、「汝の軍功数度の事ながら、今日の働きは莫大であった」と、唐織の胴服を賜る。同十九年(1591)奧州九の戸の修理亮政實の反乱の時も、抜けがけし本丸まで攻め寄せ、遂に落城する。十六歳の時にはじめて高名してから、三州池鯉鮒(三河知立)で加々野井彌八を従えるまで、武功は数え尽くしがたい。

さて秀吉公が明智を亡ぼし、天下を得たので、諸将をそれぞれ賞す中に、吉晴は特に軍功があったと、遠州浜松の城主とし、中老職にする。吉晴も面目をほどこし、忠勤を尽くしたが、公が亡くなったので、神君(家康)に仕え、武勇を表す事挙げて数え難い。 御一統(全国統一)の後、出雲・隠岐両国で都合二十三万五千石余りを領し、慶長十七年(1590)六月十七日六十九歳で卒去したことが、『武家英勇記』に見える。略章して出す。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

丹羽郡大口町堀尾跡2丁目22番地