下小田井村にある。幕末頃には田圃となり、字を古城と呼ぶ。

かつて斯波氏の家臣である織田氏が守護代として国務を司っていたが、のちに二家に分かれた。上四郡は岩倉の城主が司り、下四郡は当城の城主が司った。

当城主であった大和守敏定は、寶徳の頃(1449-1452)斯波千代徳丸が幼少であったため、将軍足利義政の母・慶樹院に口添えを頼み、自ら尾張の守護職を願い出た。しかし評議決せず、 結局千代德丸に守護が命じられた。慶樹院は憤って嵯峨へ隠遁したと、『南方紀傳』『康富日記』『将軍家譜』等に見える。その頃の織田氏の威勢の強さを伺える。

天文の頃(1532-1555)に大和守信武が当城主であったと、『人物志』や『信長記』等に見える。また『津田家譜』及び東雲寺に建てられた石碑の銘からは、織田彈正左衞門尉久長の二男丹波守常寛、その子兵部大輔寛故、その子太郎左衞門信張らも、みな当城主であったことが見える。

『尾陽雜記』には、「小田井村の入口の左の方に小さな松があり、南に少し丘が見える。そこが城跡である」という旨が記されている。この書の撰者の水野金兵衞遠守は寛文頃(1661-1673)の人だが、その頃までは松があったと見える。しかし天保の頃(1844)になるとその松もなく、名のみ残って畑となってしまった。今も字に「古城・城前・羽城・立堀・北勘堀・南勘堀・馬勘堀」と、みな城にちなんだ名が残っている。

小田井はかつて荘園の本所(中心)として、『實相院門跡系譜』に「於田江」、『梅花無盡藏』に「淤臺」、その他「於多井」などとも表記されている。今は上・中・下の三郷と分かれている。かの定家卿の「しら玉の をだえのはしの 名もつらし」と詠んだのは、陸奧の名所なので当地とするのは誤りである。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

清須市西枇杷島町小田井2丁目7番地2
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