北方村にある。幼名を長谷川竹といい、信長公の小性を務める。成長して藤五郎秀郷と名乗る。信長公の死の後、秀吉公に従い、越前國東郷を領知し、従四位下侍従に任じ、名を秀一と改める。この人は器量抜群で、へつらいなく、直言を発して、高貴の人をも憚る事がなかったが、世にゆるされ、人にあがめられる。 のちに徳川家に奉仕したことが、『太閤記』『玉滴隱見』等の諸記に見える。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)