現在は寺は廃され、桜天神の境内となっている。
天文21年(1552)3月3日に信長の父の織田信秀が病没し、萬松寺にて葬儀が営まれた。このとき信長が、葬儀の場に場違いな姿で現れ、抹香をくわっとつかんで投げ捨て、葬儀半ばにして立ち去った事は有名であるが、弟の信勝へのあてつけを込めた行動であるともいわれる。
当時、室町幕府の介入で尾張・駿河の和睦が進められていた。しかし信長はこの流れに逆行して対今川戦争継続に執着し、また所領内統治権者も弟信勝が有力であった。織田弾正忠家の家督は迷走していたのである。
慶長十五年(1610)の名古屋城造営の際、加藤肥後守(清正)侯が萬松寺を旅宿とされたのが、この場所である。
清正侯が五重の天守閣を築かれたとき、熱田のほうから大石を運んだ。角石などの大きな石を、毛氈(もうせん)数十枚で包み、青い大綱を巻き付けて地車に載せ、五、六千もの人夫で曳かせたという。
その際、児小性の美少年に錦繡を装わせ、数十人を石の上に立てて並べ、自身も片鎌槍を手に、その中央に立ち、木やり歌を歌った。
また、那古野や清須の商人どもが売りにきていた酒肴や果物などを、値段を問わずにみな買い取り、見物の諸人に与え、菓子を投げ散らしては、手に手に拾わせたたので、数万の見物人まで、一斉に大綱に取りつき、木やりの音頭に合わせて、思い思いに声を出して、あっという間で普請場まで曳き上げてしまった。この小性どもの美しき装いを見た賎しき児女どもに心を動かされぬ者はなかったという。その頃の童謡の
およびなけれど萬松寺の花が、折つて一枝ほしござる
(:とても手に届かないが、万松寺の花を折って一枝欲しいものです
を摘んで略抄する。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)