一向宗東派、名古屋勝鬘寺の末寺。もとは天台宗で、中興開基は覺證。俗姓は武蔵国豊島郡荒木の住人で安藤兵部少輔光季といったが、武門の家を出て比叡山に登り、薙髮して玄理と号し、靜嚴僧都に随従し、顯密両宗を学び、博識の誉あり。その後、諸国を経歴し尾張に来て当寺に留まっていたが、親鸞聖人に帰依し、 三河より当寺に迎え、師弟の約束をし、名を覺證と賜った。その後、聖人が大浦郷に移られる際に、木曽川の急流で容易く渡ることが出来ないところを、七人の僧徒が身命を惜まず、川の瀬を踏んで聖人を渡した。これより瀬部七門徒という。当寺は始めは同村のうち、城前という所にあったと言い伝えられる。されば聖人の寄宿した所は今の地でなく、現在の地は後に易地だったと云わる。
『大谷遺跡録』に、聖人真筆の九字名號・蓮如御筆の光明品を安置したと記されるなど、師弟のしるしにとして授与の品、今も寺に伝わる。また手づから植えたという百合といひ伝えられる、鹿子百合がある。西方寺百合として、世の人は賞美する。霊宝には祖師聖人眞筆金泥の光明品に、實如上人數百字の書入ありて、他に類をみない一軸である。祖師聖人筆九字名號一幅・連如上人六字名號二幅・教如上人書翰・三尊釋迦如來思恭筆・覺證畫像堅成筆・天台宗の時より伝来の金襴五條の袈裟、その他数多あるが略す。
木像には、新潟県三島寺西照寺の親鸞坐像風の親鸞自作の寺伝をもつ座像と、石山合戦の功労として教如から与えられたと称する親鸞座像がある。有名な「鏡御影」と面容が似ており、法衣の素描線を木彫で出そうとした特徴を持つ。書院3室の大襖絵18面、違棚天袋・地袋10面は棟方志功筆である。
毎年三月二十四日より三日の間虫干しがあり、多くの人が集まる。
参考
西枇杷島町史
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)