黒田村にある。はじめは和田河内守が築き、居住する。その後、澤井左衞門尉雄が重居し、天正十八年(1590)一柳監物直盛に当城を賜う。 直盛が慶長五年(1600)の秋、伊勢国神戸に移ったのち、 織田伊勢守信安が国務だった時は、 山内但馬守盛豊を黒田の城代としたことが、『尾陽雑記』『人物志畧』等に見える。
黒田城は犬山城とともに岩倉織田氏の支城であった。大永年間、山内久豊が丹波から尾張に来るが間もなく没し、その子・盛豊(明応九年(1500)生、幼名猪助)が後を継いだ。盛豊は岩倉城主・織田信安に仕え、黒田城を預けられた。
弘治元年(1555)頃から信長は織田伊勢守との対立が先鋭化し、弘治三年(1557)黒田城は夜討ちされた。盛豊は臣下の招宴に列して帰宅したのち、うたた寝をしている際に敵に襲われた。十六歳の嫡子・十郎は奮戦の末討ち死にした。盛豊も深手を負ったが家臣が駆けつけ応戦し、敵を退散させた。この後、山内一家は岩倉に移り、永禄元・二年に岩倉城に居城したという。
永禄元年(1558)の浮野合戦では盛豊は軍勢を下知して勇戦した(『新撰信長記』『総見記』)。翌永禄二年(1559)乙末、盛豊は岩倉城にて信長の兵と戦い討たれた。家臣祖父江勘左衛門公(一豊)及び母は梶原氏公の弟・妹を奉じて難を逃れた。法蓮寺に盛豊・十郎父子の墓が残っている。なお、一豊の母は羽黒城主梶原氏の娘であったいわれる。
関ヶ原役後、城主・一柳直盛は伊勢神戸に五万石で加増移封された。
参考:
『尾張名所圖會 前編 巻五』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)
岩倉市史編集委員会『岩倉町史 上巻』(岩倉市、昭和六〇年)430-