旧山守資料館。現在、人が住んでいるため入るべからず。
尾張藩から「三浦・三ヶ村御山守」を命じられた内木家の住宅。三ヶ村とは、裏木曽(木曽山南西側)の川上村・付知村・加子母村で、加子母村は中山道落合宿と高山道下呂宿を結ぶ間道沿いにある。三浦山は王滝村に属していたが、信州側は地形上の制約で登りにくく、加子母村の小郷からの登山路が利用された。小郷峠から西に向かうと信濃・美濃・飛騨国境の三国山、倉掛峠から御嶽へ向かう尾根筋は信濃・飛騨の国境にあたる。
【内木家のルーツ】 内木家は、もともとは飛騨国高原郡今見村に居住して高原郷13ヵ村を治めた今見右衛門の一族とされ、大永年間(1521~1527)に美濃国恵那郡加子母(現在の岐阜県中津川市加子母)へ分家し、同地を開拓した。江戸時代に入り、加子母村が尾張藩領となってからは、代々同村の庄屋を務めた。
【御山守設置のきっかけ:国境紛争】 内木家が庄屋から、藩の森林管理を担う「御山守」へと転身する契機となったのは、享保期の林政改革における「三浦山(みうれやま)」の国境問題だった 。
元禄五年(1692)の飛騨国幕領編入後に請負商人の伐木が活発になり、飛騨国では奥山の森林資源が伐り尽くされ伐採は深山へと進出した。やがて飛騨から信州側へ密かに越境して伐採する切越が増加し、飛騨・信濃両国の国境問題が顕在化した。 なかでも、信濃・美濃・飛騨の三国の国境に位置する三浦山では、飛騨国(幕府領)側からの越境伐採(「切越」)が多発していた 。飛騨側は「三浦山は古来より入会地(共有地)である」と主張して伐採を正当化しており、尾張藩はこれに対抗する必要に迫られていた 。
享保11年(1726)、当時の当主・内木武益(たけます)は、藩の命を受けて独自に調査を行い、飛騨側が不法に侵入している証拠や情報を収集した 。その上で、国境を明確にするための「御境伐明ケ(おざかいきりあけ)」や見回りの強化、飛騨側との交渉などを提案し、尾張藩を積極的な対策へと動かした
【御山守への就任】 武益の主導による国境確定作業の功績が認められ、享保15年(1730)5月、内木武益は「三浦・三ヶ村御山守」に任命され、上松役所五人扶持を支給された 。以降、内木家は代々にわたり尾張藩の木曽材木奉行の支配下で、三浦山の国境管理と「濃州三ヶ村(加子母・付知・川上)」の森林管理を担うことになった。内木家は山林についての経験知を活かして伐採する枯損木の選択を行い、採材場所の選定や山林の再生にも貢献した。
御山守という役職は、尾張藩の統治機構の中で非常に特殊な位置づけにあった。
2代目御山守・内木武久(たけひさ)の史料より。
職域拡大の一環として、村人宅の建築(家作)を管理した。
村からの様々な願い事(インフラ整備の用材払い下げ、入札参加など)の窓口となり、書類を整えて藩の役所へ取り次ぐ業務も行った。
内木家には3万点以上とも言われる膨大な文書が残されているが、これらは単なる事務処理の結果ではなかった。 内木家にとって「記録し保存すること」は、家の存続に関わる死活問題だった。初代・武益が国境紛争の解決に成功したのは、曖昧だった国境を調査し「証拠」を積み上げたからです。それゆえ、彼らは自らの職務が正当に行われていることを証明し、曖昧な身分を保全・向上させるために、あらゆる業務を詳細に記録し、証拠として残すことに心血を注いだ。
特に2代目の武久は筆まめで、職務を通じて積極的に藩へ新しい制度(家作の取り締まり強化など)を提案(献策)し、その運用を自らが担うことで「御山守」の権限と職域を拡大させていった 。内木家文書は、一地域の森林管理の記録であると同時に、地方の「中間的な役人」がいかにして自家の地位を確立し、職務範囲を広げていったかを示す克明な歴史資料と言える。
参考:
『尾張藩「御山守」の職域形成と記録類』(太田尚宏、2018)