木津山不動院

最澄空海両大師の開基

もとは木津山神宮寺大薬師といった。

海蔵門の外、二十五挺橋の西、片町にある。当寺は仁明天皇の勅建であり、伝教(最澄)・弘法(空海)両大師の開基である。社僧・如法院が寺務であったことが承和十四年(847)三月七日の太政官符にみえる並々ならぬ霊場であった。しかし、累年の兵乱に衰退・荒廃したため、右大臣・豊臣秀頼公が再興し、慶長年中(1596-1615)に十間梁、十三間半の瓦葺きの仏殿を建立せれた。

しかし、これもまた衰退し、長く無住(住職不在)となり、修理も加えられずにいた。元禄九年(1696)長久寺の住僧・隆慶が江戸護持院の僧正・隆光に法縁があったことから、隆光が推挙して将軍家に申し出て神宮寺再建の御免許を得たため、國君(藩主)も許され、同十五年(1702)堂宇を修造し、不動院愛染院を外から境内へ移し、医王院を再建して住持を置き、かつての姿へ復興された。

山号はもとは「亀頭山」であったが、天正頃、今の文字に改めた。亀頭、木津が同音であるうえに、承和十四年(847)三月七日の官符に「置神宮寺別當。蔭孫正八位下御船宿禰木津山」とあることに依る。

本尊 

薬師如来の坐像。台座から後光(光背)まで高さ二丈一尺八寸(約6.6m)の大きな像である。胎内に弘法大師真作の薬師仏を収めているといわれている。また、十二神将・四天王等の像を安置している。

『沙石集』に、文永(1264-1275)の頃、熱田の社の辺りに住んでいた若い下手の男が、十一月十五日突然両目を失明し悲しく思い、神宮寺の薬師仏に祈念したところ、次の年の三月十五日の夜に僧が一人現れて、「目を明けよ」といった。目を開けてみると、たちまち目が聞かれたことが記されている。

不動堂、現存

本堂の側。この堂はもとは八剣宮の境内にある。不動明王の像は弘法大師(空海)の作で、八剣宮の本地仏と称したが、元禄年中(1688-1704)の再興の際にここに移し、不動院がこれを護る。

愛染堂

不動院の北。愛染明王は弘法大師の作。この堂はもとは本社の境内にあって、大神宮の奥の院と称していたが、不動堂と同時に移転して愛染院がこれを護る。

鐘楼

延徳元年(1489)に鋳造された古い鐘は、現在名古屋の惣見寺に掛けられている。『寛明日記』に正保元年(1644)六月十六日、保科候(保科正之)の領地である陸奧会津の山中の木こりが、人里離れた深山にて年齡七、八十ほどと見える老いた異人に会った。その事を領主へ告げたところ、人を遣わしてかの異人を捕らえ、子細をたずねさせた。名を福仏坊といい、生国は伊予の者であるが、かの国で悪事を働き居ることが出来なくなり、二十五歳の時に関東に下り、この山に住み着いたと言った。「それではいつの頃からここに住んで、年は何十歳になるのか」と尋ねたところ、「年月が長く経ったと思われるが、世の事も忘れ年数も分からない。ただ関東へ下向した時に、尾張の熱田の宮人が多く集まっていたので、「何事ぞ」と問うたところ、「かの宮の鐘を鋳造しているのだ」といったことのみ覚えている」と答えた。同書にかの宮の鐘の銘を見なければ、何百年以前の事なのか分からないと記されている。この延徳の鐘を鋳造した時の事であれは、この異人は正保元年(1644)に百八十歳ほどになる。今の鐘は元亀三年(1572)十一月に鋳造したことが銘に見え、「熱田神宮寺本願慶林慶春檀那尾州春日井郡山田庄上田住人吉田與左衞門云々」と彫り付けてある。

鰐口

銘に「大日本國尾州愛智郡熱田神宮寺本宮田秦傾倒之期。辱右大臣豊臣朝臣秀頼公再興旃。慶長十一(1606)丙午九月吉祥日。片桐東市正且元奉之」の文字を彫り付けてある。

鎭守弁財天社

本堂の乾(北西)の方にある。

多宝塔跡

今の不動堂がその古跡である。享禄(1528-1532)の宮図に見える。この塔の鰐口は今、亀井山円福寺にあって、銘は本堂の鰐口と同じく、「慶長十一年(1606)再興神宮寺寳塔」の文字が見え、裏に「正徳元年(1711)以代金求之」が彫り付けられている。そのほか五重塔跡・常行堂跡・輪蔵跡等、古跡がたいへん多く尽くし難い。

修正会

正月五日の夜これを行う。俗に「大薬師の鬼祭」といって、たいへんな奇観である。その儀式は未の下刻(午後二時半)から夕方に至り、本堂において一山の僧衆が集まり、護摩修法など様々な行事があり、それが終わると松明を持ち、鬼形の者を後堂から迫い出し、お堂の下のへりを追い回すこと三度、それから松明を後園の池に投げ入れて終わりとする。これが古くからのしきたりであろうか『東鑑』に「承元三年(1209)正月十二日。神宮寺始行修正。十四日修正経。今日結願。鬼走」とみえている。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻三』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)