味鋺村にあり。真言宗、大須眞福寺の末寺。味鏡山護國院天永寺という。文明十二年(1480)の天永寺縁起に、

鳥羽天皇之御願。西彌上人之草創。天永年中開基也。蓬莱宮之末社。六所明神鎭護之靈崛。瑠璃界之本主。十二願王接化之梵場也
(:鳥羽天皇の勅願で西彌上人の草創、天永年中(1110-1113)に開基。蓬莱宮の末社。六所明神の守護する霊場。瑠璃界の本主。十二願王接化の梵場である

と見えるように、味鏡神社の社僧であった事は疑いなく、もとは勅願寺で、安食・柏井の両庄を寺領として、七堂十二区の僧坊が厳然とした古刹であったが、五百年続く兵乱で衰え、山號さえ鏡の池に結び付けられ、「味鏡」と名付けられるようになってしまった。天正九年(1581)辛巳正月、郷民は議して再建し、やゝ旧刹に戻った。

本尊 薬師如来は聖武天皇の時代(724-749)に、行基菩薩が当所に来遊され、鏡の池の水中より薬師の仏像を現させると、 菩薩白檀の形像を作り、 かの像を中心にここに納め、 精舍を立てゝ薬師寺と名付けたと、『文明縁起』にかく。この仏像を本尊とする。

寺寶 大般若経六百巻。暦應元年(1338)九月八日、足利左兵衞督直義主が納め、建久(1190-1199)・應安(1368-1375)・康永(1342-1345)等の年号が見え、安食の常觀寺で写したという奧書がある古典籍である。

鏡池 本堂より西北にあたる辺りにある。むかし金像の藥師佛が出現し、行基法師が取り納めて当寺の本尊とした古蹟である。

龍池 本堂のほとりにあり。西彌法師が開山した時、白龍が池中に現れた古跡で、池中の小島に現在、弁財天社が建つ。

岩屋堂 岩屋堂の頁に著す。

横穴式石室の古墳

護国院東方の松山に古墳がある。

6世紀より前方後円墳は築造が停止され、横穴式石室をもつ古墳が築造されるようになった。首長権継承儀礼・権力誇示の場としての大型古墳を築造しえた首長だけでなく、墓としての古墳を造営する新しい階層が現れてきた。それまで大型古墳を造っていた首長たちは新階層との区別をつけるため木棺にかわる石棺を採用したりして、ステータスの確保につとめた。

小栗鉄次郎氏が報告した石棺は観世音を安置して立てられている。下部が埋められ、全長は不明で現長170cm、巾84m、身の高さ64cmのくり抜きの家形石棺である。護国院の東方の松山の深さ2,3間のところにある岩窟の中に石櫃があって、その中から十一面観音の金仏が出現したと伝えられる。この石櫃がこの石棺ではないかと思われる。(「西春日井郡楠村味鋺の古墳及遺物」[愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告書第13])

参考:
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
北区史

名古屋市北区楠味鋺丁目
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