『鹽尻』に、京都妙心寺第三世の住僧无因禅師、犬山の號を改めて乾峯(いぬやま)とした由がみえるように、当城は往古、「乾峯城」とよばれた。
永享(1429-)の初め、尾張國の守護である武衞左兵衞督義寛の戚臣、斯波式部少輔滿桓(法名は元勳)がはじめて当城を築き、当郡小口の城主・織田與十郎廣近に命じて守らせた。廣近はのちに遠江守と名乗り、永享十一年(1439)より享徳三年(1454)まで、その後は同大和守敏定・同左馬助敏信・同伊勢守信安・同彈正忠信定・同與二郎信康が続いて城主となった。
天文十六年(1547)九月二十二日、美濃の齋藤道三の稻葉山の合戦で犬山城主信康が戦死した後、信長父の信秀の弟で、信康の次男である津田下野守信清が犬山城を守った。信清は信長公の妹聟であったが、信長とは仲が悪く、しば〳〵合戦した。信秀は末森の城に在ったが、おびやかそうとして天文十八年(1549)正月十七日、犬山及び楽田より出兵して、春日井原を駈け抜け、龍泉寺の下柏井口で放火して煙を揚げた。
これに対し、信秀は軍兵を率いて末森城より駈け付け一戦を交えた。末森方が勝ち、犬山勢は多くを討たれ、春日井原を逃げ惑いことごとく敗れた。その時の落首
鑓繩を 引きずりながら廣き野を 遠吠してぞ 歸る犬山
その後、信清思うことあり当城を退去し、甲斐國武田家に身を寄せ、犬山鐵齋と号した。元亀のはじめ、池田勝三郎信輝が当城主となって一万貫を領知し、天正九年(1581)まで在ったが、信輝は信長公の子息・織田源三郎を聟に迎えて城を譲った。天正十年(1582)六月二日、源三郎が京都二條(本能寺の変)で戦死した後、信雄公がこの地を領知され、その長臣の中川勘左衞門尉定成が当城主となった。
同十二年(1584)、秀吉公・信雄公で矛盾が起こり、羽黒長久手の合戦があった。その際、勘左衞門は伊勢路に赴き、長島から帰ろうとしていた道すがら、池尻平左衞門の恨みを受けて没し、平左衞門もまた討ち死にした。先の城主池田勝三郎(紀伊守信輝入道勝入と号す)はその虚に乗じて調略して、当城を責め落した。三月十三日、留守居をしていた勘右衞門の叔父の禅僧清蔵主以下多くが討ち取られた。
しかしながら、翌月四月九日長久手の戦いで勝入及び嫡子紀伊守之助ともに戦死し、合戦も和睦したので、当城は再び信雄公から城代を置いて守らせた。加藤遠江守泰景・武田五郎三郎清利らが城代となり、同十五年(1587)土方勘兵衞雄久が四万五千石で当城を領した。
同十八年(1590)信雄公が出羽の秋田へ左遷された後、当國(尾張)を三好孫七郎秀次が領したので、その父の長尾武藏守吉房入道常閑が当城主だった。その後、秀次の弟である三好宰相秀俊も在城し、秀次の臣三輪である出羽守・三輪五郎左衞門等が城代を務めた。
のちに石川備前守光吉が十二万石で当城を守ったが、慶長五年(1600)の乱(関ケ原の戦い)に逆徒-西軍に与し、大坂からの加勢を受けて七千七百騎余りが立て籠もった。これに対し、関東-東軍より中村一學一忠が犬山の押さえとして差し向けられ、羽黒から押し寄せて城近くに陣を構えた。
石川光吉は木曽の代官を兼ねていたが、東照宮(家康)は下野小山の御陣から、山村甚兵衞・千村平左衞門を木曽に遣わし、光吉を討戮すべきよし仰せをうけて出発したが、関長門守一政・福島左衞門大夫正則の調停で、光吉は降参して城を明け渡し、光吉の死罪は御赦免となった。
こうして関ヶ原の一戦の後、北條左衞門大夫氏勝・松平左馬允忠頼等が城番として代わる代わる守ったが、薩摩守忠吉君(松平忠吉)が当國を御拝領されたため、その長臣の小笠原和泉守吉次が、二万七千石で当城主となった。
この時、美濃兼山の森武藏守の城を廃して、その天守三重閣を当城に移した。この閣はもとは齋藤大納言正義が兼山の城内に建てたが、この人は近衞殿の御庶子で、美濃國をさすらい、齋藤道三の養子となって、兼山に在城した。攝家の出身であったので、大臣家の家作りに準じ、高欄付きの三重閣を建てたが、今なお当城に移しても、欄干はもとのままある。
その後、平岩主計頭・弓削親吉、十万石を領して在城し、清須の御城を補佐した。親吉が没した後成瀬侯の所有となり。要害堅固の藩鎭となった。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)