巖松山(がんしょうざん)東龍寺來迎院(らいごういん) 大野村にあり。浄土宗、三州・崇福寺の末寺。往昔は天台宗の道場で、伝えによれば、慈覺大師の行脚の折、ここに草庵を結んだが、いつしか荒廃した。應永三十一甲辰年(1424)、僧・東岩惠全が再興し、今の宗に改めた。永祿年中(1558-70)、織田信長が四十貫文の田地を寄附し、また制札を賜った。さて、明智光秀が信長を殺した時、神祖(徳川家康)は泉州の堺に在られたが、迂回して伊勢を経て、当村に至り、当寺に三日間御滞留された時、かの信長公の制札を御覧なさり、御涙数行に及ばせられたという。慶長七年壬寅(1602)六月、神祖が駿府におられた時、当寺の住僧・洞山に旧事を問はせなさり、洞山は答え、信長公が寄附した田地は、秀吉公に没収されたと申し上げた。これにより神祖は寺領若干の朱章を賜い、今もその名残が残っている。

本尊

本尊の阿弥陀仏は春日の作。『縁起』によれば、この阿弥陀仏はもとは比叡山横川の楞嚴院にあったが、明應四年(1495)の秋の末、ある夜に院の僧に告げ、「我此地にありて、台徒を利すること年久しといへども、猶萬機の本誓にたらず。今より後は、専ら鄙俗の衆生を化益せん。我を東の方に送るべし」と。院主が夢さめて後、示現のこととはいえ、どの国とも言われなかったので、半信半疑に放置していたが、このような霊告が連夜に及び、さらに一首の詠歌を示された。
「山よりも来り迎ふる東路やみのをはりをば我ぞ助けん」
と。また別の告に、「我を迎える者あらん、とくと東に送るべし」とあったため、院主も今や是非なく、当ては無かったが、東路へ如来を送り奉ると、不思議なことだ、当寺第三世・傳空上人も、連夜の靈夢をこうむり、これも当ては無かったが都に向けて上っていた。江州馬場の宿で、図らずも出合い、東西互いにしかじかと語ったところ、符節を合致したため、二僧は奇異に思い、ついに当寺に来座された。靈應の著しいこと云々。

寺寶 

法然上人像:兆殿司筆。
耆婆像:宋微宗帝の筆。
山水二幅:牧渓の筆。

塔頭

林齊軒・福用軒・感迎院・甘露院・寶池院・寶相院徳用軒等の七宇あり。

参考:
小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)
『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

常滑市大野町8丁目68番地
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