佐藤紀伊守が城主。

当時、信長は清須織田家、岩倉織田家に勝利したが、犬山城の織田信清が美濃斉藤氏と組んで対抗していた。信長は居城を清須城から小牧山城に移し、犬山城を攻囲した。犬山城対岸には鵜沼城、猿啄城があり、その奥に加治田城があった。佐藤紀伊守は丹羽長秀を通じて内応し、信長は黄金50枚を遣わし籠城戦に備えさせた。斉藤方は堂洞に砦を構築した。

「信長公記」によると内通が明らかとなった紀伊守を助ける名目で、永禄8年(1565)に信長は堂洞砦の攻略に向かった。紀伊守は勘解由に娘を嫁に出していたが、斎藤方として戦う勘解由は加治田城から見える場所で裏切り者の紀伊守の嫁を竹槍で刺した。その後、堂洞城は落城し、勘解由は自害した。翌日信長は、関に本陣を置いていた長井道利や、稲葉山城から龍興が出陣し合戦となるも無事に帰陣した。

信長の命で加治田城主は斎藤新五に変わった。佐藤紀伊守は井深(加治田城より北東)に隠居し出家して龍福寺を開基した。龍福寺の背後の梨割山中に紀伊守の墓がそっと佇む。

井深の旗本佐藤氏

江戸時代に東の揖深村は幕領で佐藤氏の旗本領だった。『寛政重修家譜』によれば、佐藤家の先祖・三河守信則は織田信長に従い美濃の一揆を鎮め、揖深村に城を築いて住み、天正五年(1577)に没した。子の駿河守堅忠は豊臣秀吉に仕え、のちに徳川家康に従って関ヶ原の戦いに出陣したが、美濃の一揆鎮圧の命は、ゆえあって堅く断った、とある。

三河守信則と佐藤紀伊守忠能の関係は謎である。信則と忠能の没年は同じである。(横山住雄『佐藤紀伊守と天猷語録』美文会報77No1)その子「堅忠」と「忠次」が同一人物であるという史料は無い。

井深佐藤氏の初代・継成は、関ヶ原の戦い後に家康に仕え、慶長一五年九月、美濃国加茂郡井深村で1000石を給せられた。大坂夏の陣に功を挙げ、戦後に2190石を加増された。寛永八年(1631)六月には長崎半左衛門元通とともに日光山御宮造宮の奉行を務め、のちに普請奉行・駿府町奉行を歴任し、駿府で没した。

二代・成次(吉次)は慶長一九年(1614)大坂冬の陣で初陣し、御少姓組・御書院番士、下総国船橋御殿修理奉行、日光山堂社修造奉行・薩埵山道道路奉行(東名高速と東海道本線が海岸にせりだして背後に富士山の場所)などを歴任し、寛文十年十月に従五位駿河守に任ぜられた。三代・続成(信次)は小普請で天和の井深義民事件の当事者となった。四代・重信は水戸家臣佐藤猪右衛門の子で養子となり、3100石を受けて小普請となった。知行地は以下の通り。
・美濃国加茂郡 井深村
・大和国十一郡
・摂津国武庫郡
・近江国高島郡
(『美濃加茂市史』)

加治田は鍛冶田に由来すると思われ、この字下には、金戸(かなど)、金ノ手、吹上、中之町、下之町、鍛冶洞、東錆洞、西糠洞など金属に関係すると思われる小字が残されている。(『濃飛古代史の謎』)

参考
『濃飛古代史の謎 水と犬と鉄』(尾関章、1988年)151頁
『美濃加茂市史 通史編』(美濃加茂市、昭和五十五年)324-326頁

加茂郡富加町加治田
種別