東枇杷島にある。曹洞宗、三淵村正眼寺の末寺。山号は松峰山。創建の年紀は詳らかでない。
師長公の当地の伝承は枇杷島に詳しい。師長公の守り本尊で、「蚊祭の薬師」と称す。蚊祭薬師如来は弘法大師一刀一礼の御作、師長公守本尊で、公の愛妃の亡霊の菩提の為に営み、亡女の法号(清音院松月麗照大姉)を以て清音寺と号した。初め天台宗に属し七堂伽監を備えた霊場だったが、應永年中(1394-1428)の洪水により堂宇は流失し、享禄年中(1528-1532)にまた焼失したが、両度の水火の難に、如来像のみ依然として在り続けた霊像である。その頃、正眼寺八世の宣叟曇周和尚が、当寺を中興し、今の宗に改めた。
文政十一年(1728)七月十三日に西枇杷島東六軒町で生まれた。菱屋重次郎と称す。初め沙流、やがて量湖、末堯庵と号し、のち静処と改めた。書および漢籍を柳沢維賢に、画を渡辺清に、俳句を西川芝石に学び、幼なくして秀でた句を詠んだ。
家は代々農業で、蔬菜問屋も営み、苗字帯刀を許された家柄であったが、静処は、書画、珍本、古器を愛し、暇があると景勝の地や旧蹟を訪れた。したがって、交遊関係も広く、教えを乞う者も少なくなかった。清音寺で開かれた彼の句会には、江戸・京都・大阪などからも参加する人あり、盛会であったといわれる。明治二二年(1892)九月十六日、六五才で没した。清音寺に葬る。
著書に『閑古鳥百韻』『静処祭句集』その他がある。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)