前飛保村にある。浄土宗西山派で、京都禅林寺・光明寺の両末寺。山号は日輪山。本朝六檀林の一つとして「田舎の本寺」と号し、紫衣着服の免許を受けた。後醍醐天皇の元徳元年(1329)、天眞乗運上人が鎭護国家のため創建。はじめは圓福寺といい、寛正三年(1462)曼陀羅の瑞應(後述)により、今の山号・寺号とした。その後、後奈良帝の天文十年(1541)三月二十五日、勅願の綸旨が下され朝廷の勅願所となった。開山上人は花山院内大臣師継公の末孫で、由緒ある家系の人だが、はやくに出家し、上野國善導寺の光融和尚に浄土の血脈を授かる。袋中和尙の『淨土血脈論』にも、「乗運は尾州曼陀羅寺」云々と見える。智・徳兼備する大徳の僧で、康永三年(1344)六月十七日没した。そもそも当山は葉栗郡の中で最も大きな寺で、堂塔・僧坊が並び、常に称名の声が絶えなかった。浄土のありのままを実感する無垢清浄の古名刹である。
阿弥陀如来で、観音・勢至の二体の菩薩の像を安置する。上人が当寺を創建し、本尊造立の志願したが、その折、木曽川が洪水し、この三仏像が流れ来て、光明を放ちていたので、天眞上人は不思議に思い、取り上げて安置した。
本堂の西にある。後花園帝の寛正三年(1462)六月十二日、当山第七世の住僧空光上人が、朝の勤行を行っていたところ、老尼一人が入って来て、浄土曼陀羅の一軸を授けた。
有縁の者一たび拝すれば、長く三惡道を免るゝなり。我上人の信行を感じて、傳へまゐらす
と言い終わるや去った。上人怪しみ、跡をつければ鎭守八幡社の宮中へ入った。さて、曼陀羅をひらいて見れば、大和国の當麻寺の古幅と露違わず。折ふし、朝日が影堂内にさし入り、曼陀羅に映じ、変わる光明で輝き、衆僧の目を驚かせた。歓喜のあまり、別堂を営み、曼陀羅を置き、その時、香盒の中から文殊菩薩の小像が現れた。その像は今なお伝わり、香盒の文殊と称す。こうして山号・寺号を改め日輪山曼陀羅寺と呼ぶようになった。
二十年ごとに御開帳され見られる。
方丈の前の左の方にある。『炬範家集』に、鎭守八幡宮を改造した時、御正体(神像)を墨染の袖に包み新宮に移したところ、かの行教の袂に現れなさったことを思い出して
今も猶うつしてぞ見るいにしへの跡たれそめし神のおもかげ
同じ時、神前で、本地の誓願の事など思い合わせて、社頭での述懐ということを
宮ばしら立てし誓の朽ちせずばなほ後の世も神やまもらん
『鹽尻』
葉栗の曼陀羅講寺は、本州府北(尾張藩名古屋城北)の古跡、西山檀林の名刹である。宿春の遠い道ではないが、思い立つ志をなおざりにして過ぎていたが、何某の西堂、この春はとにかく詣で来れなどいざなわれたので、三月の末二十九日、かの旧刹に参った。まだ夜が明けないうちに出発した。川霧が一面に立ち込め、長橋は半分が消え、村煙立ちのぼり曉の鐘が遠く聞こえる。生田川の名は、難波の名所と同じく由緒があり、初めて音をきくホトトギスも風情があり、横に雪が白く残る東の嶺の姿はたいへん趣深い。
是もまたいづちいく田の時鳥かたらひ捨てし曙の聲
生田の社は、こゝから北にある井上庄芝原という里にいらっしゃるという。文治丙午(二年、1186)の春、初名は円福寺で、浄土宗西山派の僧・乗運を開山とする。京都禅林寺・光明寺の末寺である。寺伝によると、乗運は後醍醐天皇の母の猶父(父同然の人)の花山院師継の子であり、後醍醐天皇の外叔父であるという。だが、花山院一族の系図『尊卑分脈』から確認できず、朝廷・公家が建立に関与した記録もなく、乗運の事績も不明である。康永三年(1344)に乗運が没した後は無柱となったが、永享六年(1434)に召運が住持となり、同八年以前には曼荼羅寺の寺号に見られるようになった。御位記を重ねて従三位としたのであろう。程なく岩倉の里近くの古城の跡を尋ねた。遠い昔、織田の嫡家左馬助敏信の一男伊勢守信安が、こゝに築き居城とし、本州上四郡を進出して立派に思えるが、その息子の大和守信武が、惣見院の贈相国と不和になり、永禄二年(1559)には、あえなく亡ぼされた。物かわり星は移り、ただ牧童の刈り残す春の草のみ、年々生い茂るのみとなった。されば百花が美しさを争うも春は長くない。山のように積み重なる無念を残して、暁に露が行人の袖をぬらす。人の世に定めがない様子も、なにくれと思い数えられて、
蕭々荒郊唳鳥歸。
人民城郭古今非。
當時誰識烟條下。
一片曉風柳絮飛。
(:物寂しい荒野に鳥が鳴く。人々も城郭も昔と今とでは違う。当時のことを誰か識っているだろうか、柳の枝の下。一片の暁に柳の綿が飛ぶ。
芝原村を左へ行き、高雄庄に入る。奈良という里の名は古く、桑林の緑は深い。養蚕の人々が多い所である。衣服の恩にこそ、貴きも賤しきも肌を隠し、嵐を防ぎなさるものを、愚かにも忘れることは、天津罪人の類(神仏に背く者)というべきだろう。右の方には寄木へ往く路がある。そこには稲置天神がいらっしゃる。俗に天道と称す。大中津日子命は稲置之別、尾張國別祖と和銅の神記にはある。尾張の人々が参り神徳を求める神様である。しかし、私は母の喪がまだ明けていなかったので、参ることが出来なかった。そのまま通り過ぎて行くうちに、茶園が多く見えてくる。こゝもお茶の産地である。そうして飛保に着き、かねてより目指していた精舍に入った。青々とした竹はたいそう高く、 木立は古びて趣きがあり清らかである。山は麟鳳が住むように密かで、門を開けて凡・聖誰でも入ることが出来る。山門の外には、かつて神廟(朝廷)が作った禁榜がある、先正東軒にのようだと案内すると、ようこそとなさる。やがて連れ立って大殿に参る。十間余の梵宮、彩節嚴に、坊舍およそ十三院が東西に連なる。 仰ぎ見ながら階段を登ると、長廊は静まり、香篆の煙が残り、塵もなく、医師の声は陰々としていた。八尺来迎の聖儀、三尊鮮やかにに拝みなさる。恭して香をくべ、拝みなさると、悲喜の涙は交互に流れ落ちる。
紺殿風囘靜。 玉爐烟絕薰。 一傅彌陀佛。 他奈事云々。
(:紺殿の中は風がめぐり静か。玉の炉からは煙は絶えて薫る。一心に陀仏を唱え、他事などどちらでもいい云々。
三祖の真影を拝し、当山第一祖天眞乗運上人の像に謁見する。師は花山院内大臣藤師継公の令子(子同然)、西山の正脈を伝え、名望は当代随一だった。当寺を圓福寺と称された。後醍醐天皇はたいへん紫袍を賜り、恩恵は輝いていたとか。光明院の康永二年(1343)六月十七日に没す。第七世空光上人の時、寛正三年(1462)六月十二日、霊異あって観経の変相を感得したため、日輪山曼陀羅寺と改号した。後奈良院の天文十年(1541)三月二十五日、勅願の綸旨を下し、官寺に列した。およそ当寺は京都の善峯のように清らかな風が高く吹き、檀林(仏教の学問所)の花が香って、学徒が絶えず続いていた。さて曼陀羅堂に昇ったところ、院主炬範公が出て、僧侶に御帳をかゝげさせる。近くによって拝させて頂いたところ、丹青の花が清く愁懐を晴らし、輪円の月は朗らかで私の白髪頭を照らす。また比類なき聖図に向かうも因縁うるわしく、[中略] 大慈大悲の尊容、中々に言の葉にかけてもつくしがたい。心の行くままに拝ませていただく。方丈へ移り院主に挨拶して、便りが絶えていた事を謝る。「希に来る志、浅はかならず」など仰っられ、宝庫の霊像・名画以下を出させて、これを慈室に掛け、床上に置いて見せていただく。西方三聖の大像は顏輝の筆で、当山第一の什宝である。その他、思恭牧溪の絵図、野山大師惠心僧都の真筆、兆殿司の涅槃像、世に希な霊像、あれこれと数えようとしてもきりがない。また高祖東漸大師鏡の御影といって、たいへん尊い肖像がおられる。また円合の中に造られた文殊大士は、 鎭守八幡の瑞籬より出現された霊像とか。なお唐や大和の名立たる筆の跡、見るに尽きもせず。かつ代々の綸旨、武将の證章が、金界(曼荼羅寺境内)の栄を沿え、法燈の光を増す。趺座でおられる院主に拝謝しようと、
かゝるえにいかに結びし法の水ふかくや世々にちぎりおきけん
上人のかへしに
法の水ながれの末もふかきえにむすぶ契はよゝにたえせで
こうして正東軒に立ち戻って、憩う。やゝ日が西に傾こうとする。門を出て吟筇(杖)は南に向かう。あるじも門に立ち添い送られる。えにし(仏縁)あれば又も、と思う心さえ、この世を永く思う執着になるのだろう。いつまで六道(迷いの世)の貧里にさまよい、三業(身・口・意)の罪を貪るのだろうか。しばし命が永らえるとしても、それをうれしと思うべき。半日の霞みにすすぎ、一夢の春を堪能したことで、塵の外のような心地がしたのだろうか。
朝鮮伝来の鐘があり、竜が刻んである。日照りが続いた時、この鐘を出して経をあげ雨を念ずると必ず雨が降るという。
昭和十九年(1944)八月から名古屋市昭和区の叢雲国民学校(現名古屋市立村雲小学校)の学童疎開を受け入れた。受け入れ先は常照院・寛立院・慈光院・光明院・世尊院・修造院・霊鷲院・曼荼羅寺の九ヵ寺。
当時の『中部日本新聞』に疎開開始後二ヶ月ほど時折「疎開学童便り」という記事が掲載された。
葉栗郡宮田町曼荼羅寺などを宿泊してゐる叢雲国民学校生三五〇名は午前の勉強に続きお昼からは木曽川で楽しく水泳したり魚獲りに一生懸命(昭和一九年八月一六日)
葉栗郡宮田町曼荼羅寺(叢雲校)で九日午後三時、浅井町長誓寺(枇杷島校)十日午後三時から慰問童話大会を開く(昭和一九年九月九日)
参考
『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
千田英元『木曽川の水と尾張地域』(1984年)293頁
江南市教育委員会・江南市史編さん委員会『江南市史 本文編』(愛知県江南市、平成13年)660、661頁