尾張氏の氏神に起源とする。律令制下では封戸寄進による国家財政の援助を受けて存在した。しかし、律令体制の衰退に伴い自ら財政基盤を築く必要に迫られた。

一二世紀前半、尾張一宮(真真田社)・二宮(大県社)制が整うなかで、皇室との関係を保ちつつ、尾張国三宮としての地歩を確立した。国司と大宮司家は結託し、国領を割いて寄進することで社領を形成した。これは本来神社の修造、管理義務を負う国司が神戸制崩壊後、財源を官物以外に求めたからである。さらに、大宮司家・尾張員職(かずもと)がその女(松御前)を尾張目代・藤原季兼(すえかね)に入れて、国衙勢力との関係を強めたことも背景にある。こうして成立した社領は、国衙の公的な神社領でありながら、大宮司家の私領的性格を濃く帯びていた。

熱田社領の中で史実に確認されるものに、古代末期成立とされる春部郡の安食荘中の社領がある。安食荘は本来後醍寺領であったが、社寺や権門勢家の社領が入り組み複雑な様相を呈した。散在所領の中で熱田社領は群を抜き、三分の一強を占めた。如意(現名古屋市北区)七ヶ里に関しては、熱田社が一部の権益を除き領主権・検注・管理・開墾等を行える所領として支配していた。康治二年(1143)の資料には、荒野を含めて二百五十町歩を超える広大な社領を形成した事が記され、安食荘内の社領の九割に及んだ。社領は鳥羽院政期(1129-1156)には皇室領となり、本家職はのちに持明院統に伝領された。その後、熱田社領は少なくとも13世紀半ばまで拡大を続けていった。

参考:江南市教育委員会・江南市史編さん委員会『江南市史 本文編』(愛知県江南市、平成13年)

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