景行天皇四十年七月、東国の諸族(東夷)が皇命に叛いたため、皇子・日本武尊(ヤマトタケル、はじめ小碓尊、またの御名を日本童名という。幼少より勇猛で、容貌魁偉、身長一丈、力の憂く鼎 [大きな鍋] を持ち上げるほどであった。これより先に熊襲を討たれた際、尊は奇謀をもって川上の梟帥という者を殺した。讃えられたので、日本武と名付けたという。)が勅命を奉じてこれを平定しようと、十月に出立した。
まず伊勢大神宮に詣で、斎宮におわす叔母の倭姫命より、天叢雲の神剣と火打袋を授かり、尾張に渡った。氷上の里 (今は知多郡大高の村) にて建稻種命の妹・宮簀媛命を寵愛され、しばらくご逗留されたが、再会を約束して東に行った。
駿河國にきたとき、凶徒らが狩猟にかこつけて、野火で焼き殺し奉らんと謀った。既に危うくなっていた。その時、かの神剣が自然と抜け出し広い野の草を薙ぎ払い、また火打袋の口が開き火はかえって賊徒を焼き滅ぼし、急難を免れた。それより剣の名を、「天叢雲」改め「草薙の神剣」と申し上げるようになった。
こうして常陸・陸奥等の夷賊征伐を終えて、信濃坂を越えて再び宮簀媛命の家に滞留された。お別れに臨み、神剣を媛のもとに留め置かれ、「我が帰京すれば必ず汝の身を迎えよう。この剣を我が床の守りとせよ」と言い置き、徒歩にて出で立たれ、近江の伊吹山の悪神を退治に向かわれた。
その神は化けて小蛇となり道に横たわっていた。尊は心して通られたが、山神は毒気を吐いたため、心が乱れてしった。それより伊勢に移られたが、能褒野にて病いが重くなり、武彦命に天皇に事の由を奏上させ、ついに崩御された。 御年三十。
天皇はお聞きになり、哀れむ事限りなし。群臣に仰せになって伊勢國能褒野に葬り奉らせたところ、白鳥となって大和國を指して飛び去り、琴弾原にとどまった。そこにまた陵を造らせたところ、また飛んで河内の古市にとどまった。そこに陵を定められたが、白鳥はまた飛んで天に上っていった。よって三つの陵があるわけである。
宮簀媛命は御約束に違わず、ひとり御床を守り、翌四十一年、建稻種命と共に議して、御社をこの地に草創し、御剣を鎭座なさしめた。こうして建稻種命の裔孫、尾張氏の人々が崇め祀って、「熱田大神宮」と称し奉るに至ったのである。
『日本書紀』『古事記』『舊事紀』『古語拾遺』『神皇正統記』『元々集』『寛平縁起』等を参照して略抄した。神徳の威光と霊験がいかに著しかったかは、古今の書籍に載せるところ、千百をもって数えるのではないか。その一、二を述べるならば以下の通りである。
興福寺の一和僧都は、維摩會(ゆいまえ)の講師を長年望んでいたが、思いがけず性延という僧に越されてしまった。心憂く思い、欺きに堪え兼ね、寺門を退去し、東國へ修行に出て、熱田の神社に詣でた。すると、怪しげな禰宜が現れてこう言った。
「汝、怨む事があって本寺をしりぞいたという事だが、そのような事はすべきでない。かの講師の次爵は、帝釋の札に記されており、「性延・一和・義操・観理」とある。だから憂念(心配)をやめて寺に帰りなさい。我は春日山(春日大神)の老翁なり」
と言って失せなさったという。
この話は『撰集抄』及び『春日験記』等に見え、『元亨釋書』には次のようにある。
壹和彼講師を祥延に越され、憤を発して熱田の神祠に身を隠していた。その社に禍福吉凶をよくいう巫女がおり、「天帝の玉簡に維摩講師を記してあるが、祥延が先で壹(一)和がそれに次ぐ」と示された。一和は思い上がりを恥じたのだろうが、京に帰ったが、はたして四年にして維摩の詔を承ったということである。
同書によれば、釋性蓮は孝行な僧で、母の遺骨を抱き高野山に納めようと熱田に至った。しかし、神域の穢れを忌み、南門の側に身を寄せて伏していた。その夜、大祝(神職)の夢に大神が現れ、「今私のもとに尊い賓客が来ている。極上の馳走を致せ」と仰せられた。祝が境内を探したものの人は無く、ただ門外に性蓮一人あったので、祝はこの僧だと悟り、心づくしの料理を差し上げたという。この事は『沙石集』にも載せられ、まさしくこの事を神官が語ったことと記されている。
伏見修理大夫・橘俊綱は、十五歳で尾張守に任じられ、当國(尾張国)に下り、当社を参拝したが、大宮司は年老いており遅く出迎えてしまった。國司は無礼なりと怒って、厳しく処分して戒めた。困った大宮司が当社に参り説明し、「この事は私の恥ではなく、大明神の恥である。國司に天罪を与えてください。」と念じた。すると明神が示現し、こう告げた。「昔、この國に俊綱という僧があり、法華経を読んで我に奉げようとした(法楽)。しかし汝(の前世)はそれを煩わしく思い、かの僧に水を浴びせて追い払ったのだ。その僧は怒りに耐えかね、今、國司に生まれ変わってその報いをを致しているのである。ゆえに我の力に及ばない。俊綱の生まれ変わり(後身)であるので、「としつな」と名乗っているのだ」
この話は『続世継物語』の藤波の卷、源康頼の『宝物集』及び『宇治拾遺物語』に見える。
承久兵乱のとき、当國の住人が乱を避けて、資材雑具などを携えて、境内(社頭)に集まり身を寄せていた。その中には、親の喪中であったり、出産の穢れに触れるものもあった。そのため神官たちも制しかね、大神を下し奉り、御神楽を奏して神慮をお尋ねした。すると大神より「われがこの國に天下る事は、万民を育み助ける為である。いましめるべきではない」と御託宣があった。人々が感涙して喜び、信仰を深めたことが『沙石集』に見える。
『十訓抄』に、妙音院の大臣殿が尾張國におられた際、夜ごとに熱田宮に参拝されていたが、七日間の満願を迎えた夜、雲一つなく月の隈が無かったので、琵琶を奏で、『願今生世俗文字業』という郎詠をされたところ、宝殿が夥しく揺れ動いたという。世の末とはいえ、道を極めたのであればたいへんめでたき事であるとみえ、『源平盛衰記』『平家物語』等にこの事を載せて、大神が示現されて御託宣などされたことが記されている。
近世に信長公が、桶狭間へ出陣の時、当社へ参詣して祈念されたところ、神威の感応があり、白鷺(しらさぎ)が二羽、神殿から飛び立ち、東の方へ飛んで行った。神の助けによって勝軍となったことが、『安土創業禄』『信長記』『惣見記』等に記されている。
その他、霊験があった事はたいへん多いというが、これを略す。
日本武尊御在世の時の御歌、『日本書紀』『古事記』『寛平縁起』等に載っているものが非常に多く、末の條下に記す。ここに載せたものは御託宣の御神詠のみ。
『玉葉集』
さくら花 ちりなん後のかたみには 松にかゝれる 藤を頼まむ
桜の花が散ってしまった後の形見に、松にかかる藤の花を頼りとしよう
春 藤は四月下旬-五月頃
これは熱田大明神の御歌となん。昔、かの社の大宮司・尾張氏が代々なってきたが、尾張員職の娘の名を松という者が、藤原季兼と親しくなり季範を産んだ。その後、明神(熱田大明神)がこのように託宣をされた事(=松と藤を頼みせよ)により、かの季範が初めて大宮司になって、その末葉が今に絶えず続いている。
『新拾遺集』
荒果つる わが宿とはぬ恨をば かくれてこそは 人にしられめ
荒れ果てた私の宿りを訪ねてこない恨みは、人知れず心に隠してこそは人に知られるのだろうか、いや誰も気付かない
これは熱田の神社があって、荒廃していた頃の託宣の御歌である。
『延喜神名式』に「熱田神社(名神大)」と記されている。祭神は五座であり、中殿に日本武尊、西殿二間に天照大神・素盞烏尊、東殿二間に宮簀媛命・建稻種命を祀っている。
『神名帳』頭註に、「大宮は日本武尊、東は素盞烏尊、南は宮簀媛命、西は伊弉諾尊、北は倉稻魂、中央は天照大神也」とあるのは、正殿の祭神を指しているのではなく、本宮及び攝社の地方を述べたものであるが、混同するべきでない。
正殿の東に並びて草雉の宝剣を安置している。『日本書紀』の景行(天皇)紀に、「日本武尊所佩草雉劒横刀今在尾張國年魚市郡熱田社。」(日本武尊がお帯びになられていた草雉剣の横刀は、今も尾張國年魚市郡の熱田社にある。)と記されている。
また『古語拾遺』に
「草雉神劒者尤是天璽。自日本武尊俊旋之年留在尾張國熱田社。外賊偸逃不能出境。神物靈驗以此可觀。然則奉幣之日可同致敬。而久代闕如不脩其禮所遺之一也。」
(草雉神剣は最も尊い天璽(皇位の印)である。日本武尊が(東征から)戻った年から尾張國熱田社に留まっている。異国の賊が盗みだそうとしたが、境を出ることが出来なかった。神物の霊権がこの事からも推し量ることができる。それゆえ、幣を奉る日には同じく敬意を払うべきであるのに、古くからその礼を欠いたまま残る所の一つである。)
と見える。
その他「賊偸逃」(ソノグワイゾクトウタウ)とあるのは、『日本書紀』天智天皇七年の巻に、「是歳沙門道行。盜草薙劒逃向新羅。而中路風雨芒迷歸」(この年、僧の道行が、草薙剣を盗み新羅に逃げ渡ろうとしたが、その途中で激しい風雨に見舞われて道に迷い、引き返した)と見える。
同じ書の天武紀に
「朱鳥元年六月戊寅、卜天皇病祟草薙劒。即日送置于尾張國熱田社」(朱鳥元年(686)六月戊寅、天皇の病を占わせたところ、草薙剣の祟りであると出たため、即日尾張國熱田社へ送り返し安置した)と記されている。
およそこの神剣は「日本三種の神器」の一つであり、神代から帝王のもとにあったが、崇神天皇の御宇に、伊勢神宮に納められ、景行天皇の御宇に日本武尊に授けられてから、今に至るまでこの熱田の宮にご鎭座され、永く皇國の守護となられているのである。
そもそも当社は、仲哀天皇の考廟(こうびょう/父である日本武尊を祀る廟)であられて、古くより社殿の造営は広大であり、境地もまた幽遠(奥深く静寂)で、千年以上の老樹が青々と天を覆い、碧縫が深く重なり合っているが、この森を行き交う鳥たちは、決して糞汁の汚穢を残さないという。また、大地震にも、御門内は更に動かないという。さらに数十回に及ぶ御神事には、豪雨といえども執行の最中はしばらく時雨が止む事は、誰もが知るところである。このように清潔で奇異があるのも、みな神威のなせるところであり、尊び仰ぐばかりである。
また境内および門外に、古くから千基あまりの献燈が並び立つ。中にも海蔵門の内側に、長さ二丈四尺(約7.3m)の石の大燈籠一基(銘に 『寛永七年庚午(1630)五月佐久間大膳亮平勝之寄進』)がある。これは京都南禅寺に建つものと一対をなすものである。また、文政十三年(1830、庚申)には、信仰のある諸人が話し合って、千基余の燈籠を一回で奉献し、また古く傾いていたものも残らず修理を加え、善美を尽くし、大きさや配置まで、じつに諸人の目を驚かし、一大壮観となった。
神階の変遷
尊崇の称は永正六年(1509)八月の『熱田講式』に、「日本大棟梁熱田大神百王鎭護宗廟」と称される記述がみえる。『平家物語』『源平盛衰記』等に、当社を「當國第三の宮」と記されているのは、◎真清田、◎大縣に次ぐものとして述べたものである。かの二社の次には立ちがたき論の古来よりあったと見えて、 永享五年(1433)に写された安居院快叡の『神道集』に、「ある人がいうには、熱田大明神は我が国では尾張國第三宮とされるが閻浮提(全世界)の内では第三宮(伊勢神宮・石清水八幡宮に次ぐ)であるのだ」とかきほどいている。
無住國師の『雜談集』に、
「知人の妻が物狂いになったので、山寺の僧が陀羅尼を唱えて祈禱したところ、物を吐き出した。しかしそれは後妻(うはなり)が呪詛した人形や、熱田の宮の鳥居に打った釘で、はき出して散々の事をいった....云云」
と見えるのは、いずれの鳥居の事から、今は定かでない。
内天神祠の側にある。かつての古樹は枯れてしまい、今のは幹の根元から生えた若芽、ひこばえである。俗にこの木の梅実を見つけることが出来れば、神感の瑞福があると、漁り求めるものが多い。またこの辺りを「蓬が島」といって、この梅の垣根の辺りでヨモギ(蓬草)を見つけ出せれば縁起が良いことが『厚覧草』に記されている。今も参詣の諸人が、たまたま一莖の蓬草を得た時には、祈願の感応が著じるく、開運ありとして、心を留めて探し求めることが習わしとなっている。なお蓬莱が島の由来は下に記す。
『朝野群載』
熱田宮にて息子の挙周を来春任官の所望を祈請する書状 大江匡衡
わたくし匡衡は、貧しい路地におりながら招集(鶴版)を賜り、車(熊軾)を尾張に走らせた。昔は雪が降る窓の幽明に泥をすくわれ、今は熱田の冥助を仰いでいます。去年、神を拝む際に代々の先例に従いすでに臨時祭を奉納し、近日帰京するに先立ち、懇々の誠を致して、再び臨時祭を奉納する。これは則わち心の中で願うことがあるからです。
秀才が蔵人に抜擢される始まりは、江家から起こり、延喜の御代から始まった。延喜とは、曾祖父の伊予権守・千古の朝臣が天皇の家庭教師(侍続)であった為、息子の秀才・維時が蔵人となった。天暦、祖父の中納言維時が侍読だった頃、息子の秀才斉光が蔵人となった。圓融天皇の御代、叔父の左大弁斉光が侍読だった頃、息子の秀才定基が蔵人となった。
今、当時の匡衡が侍読となり、息子の挙周が秀才となった。四代にわたって相伝し、家風衰えず、天の江家の福を喜ばずにいられようか。また、維時卿が式部大輔を辞任し、息子の秀才斉光を式部丞に任官させ、斉光が昇進した(栄爵に預かる)日に、維時はまた式部権大輔に任じられた。ここに、挙周も来春に式部丞に任じられるべき好機を迎えた。父子が同じ省庁の忌があるため、来春には私が現在帯びている式部権大輔を辞任する所存です。祖父の風跡を継ぐために、愛する子を天官に奉らんと望む。幸いにも神恩をこうむり、事が成就すれば、来年のうちに挙周に臨時祭を奉納させましょう。 [中略]
匡衡の始祖である左衞門の督・音人卿は、昔当州に落ち延び神官を勤めた。今、匡衡は思いがけず刺史(尾張守)となり、挙周も私に従ってここに到った。江家の儒者は尾張の國に縁があり、熱田宮に契りがあるというべきだろう。[中略] 匡衡より祭文を唱え、地に平伏し恐々として申し上げる。
『本朝文粋』
尾張の國、熱田神社において大般若を供養する願文
尾張国司であり、正四位の下・行式部権大輔 兼 東宮学士大介である大江の朝臣匡衡は、額を地に付け仏礼し(稽首礼足)、仏・法・僧にお告げして申し上げます。
当国守代々の鎭守熱田宮のために、大般若経の一部、六百巻を書写し奉ることは、すでに恒例の事となっています。その中にもし神のご加護を授けられない官吏がいれば、この経を供養することは出来ず、また無事に任期を終えることは出来ません。当国の事で、大般若会より優先されるものはありません。
わたくし匡衡は幸いにも学問に励む清貧の生活から抜け出し、思いがけず尾州の風俗を司る。もし我が君のお世話(侍読)を奉っていなければ、どうして不器用な愚者にして、一国の長官になれたのでしょうか。もし善根をこの地に植えなければ、どうして閑素の儒者に大般若を書写することが出来たのでしょうか。
今年、洪水や大旱に遭い、国は衰えました。しかし政治において貪欲は少なく、身貧しいといえども、そうせざるを得ません。したがって舊儀に従い、熱田の霊社を荘厳にし、般若の教文を流布し、招いた六十人の僧侶、伎楽の音色があちこちから聞こえ、財宝や幣帛、吊るされた玉がせんせんと並び、法器や道具がそれぞれ整えられています。[中略]
日本の長保三年(1001)八月から寛弘元年(1004)十月に至るまで、四年の歳月をかけて大般若経六百巻を書写しました。これによって生じた功徳をもって、はかりしれない仏・法・僧の三宝(三宝大海)と、熱田神宮三所の扉(権現三所権扉)を荘厳にし、もって天上・地上の神々(天衆地祇)三界(迷いの世界、欲界・色界・無色界)と四恩(父母・衆生・国王・三宝)に向けて広げます(廻向す)。[中略]
我が願いが成就し、また任期も満了しました。故郷に帰る時期も間もなくでございます。熱田の神々、願わくは御神徳、お恵みを賜りますように。匡衡謹んで申し上げます(敬白)。
寛弘元年(1004)十月十四日
『信長記』
織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いの前に熱田神宮で祈願したものを現代語訳
敬白祈願の事
思いを巡らせると、当社大明神は累代の天皇の先祖であり、朝廷鎭護の霊神である。国家の永久を守るため、特に夷狄(いてき)の凶逆を鎮めるために、東海の辺りに神霊をお留になりました。[中略]
信長はいやしくも、平清盛公(平相國)から綿々と続く子孫となり、弓馬の家に生を受け、僅かに家業を継いで以来、遠く先祖の無道を悔い、近くは世の末の極乱を憂いてまいりました。再び帝都の衰微を復興し、国家の騒乱を治め、天皇を聖君(堯舜)のように仰ぎ、塗炭の苦しみの民を救おうと欲するほか、素懐は他にございません。[中略]
こうした中、今川(源)義元が駿豆(駿河・伊豆)の間に起こり、勢力を遠江・三河両国に振るい近里遠境を犯し、神社を破却して、民家を焼き払い、我が意に任せて天皇の意向(叡慮)を敬わず、将軍の命令(武命)にも従いません。怪しい芽が月に盛んに日に茂くなっております。葛(くず)や菖(しょうぶ)が互いに連なり合って、手に負えない状態となっています。両葉のうちに締め取らねば、後で太くなった幹を倒すために斧を用いる必要があります。そして今は既にこの状態です。その上なお強大になろうとしています。
彼は多勢四万余に及び、こちらは無勢僅かに三千に足らず。少数で大軍に立ち向かう。まるでカマキリが車の輪に立ち向かう(蟷螂の車轍)ようであり、蚊が鉄の牛を咬むに等しい。敢えて当社の神力を頼まなければ、勝つことが出来ないだろう。
伝え聞くところ、日本武尊の古、東夷を蒲原で滅ぼされたとのことです。そのめでたい前兆と合わせるように、速やかに目の前で凶徒を誅戮する。仰ぎ願わくば水と火の霊石よ、宜きに従って霊験を施し、八剣の鋭刃によって衆賊の首を斬り、立ちどころに祈願を叶えてください。伏して一羽の鏑矢(かぶらや)を奉納し、「西林の輪祭(お釈迦様を供養)」「蘋繁之奠(古来の誠心を込めた質素なお供え)」に準じるものです。今ここで義兵を挙げるのは、全く私利私欲ではありません。王道の衰退を興し、民間の危急を救うためでございます。天の見識(玄鑑)に誤りはございません。よって願書は件の通りです。
永禄三年(1560)五月十九日 平信長謹白