宿人馬は二十五人、二十五匹(『萬治四年[1661]道中奉行申渡』)、それ以上は助郷に課した。

賃銭

初め賃銭は、上り(大井へ二里半)が一人五十三文、本馬一匹百十一文、軽尻一匹六十八文であった(『道中鑑』)。のちに一人六十一文、本馬百二十七文、軽尻七十八文(『徇行記』)、下りは各驛とも前驛の上りと同じである。

問屋場は二箇所あり、うち一戸は居宅、一戸は長屋にて務めていた。当時の代表者としては、庄屋の肥田九郎兵衞、問屋の源蔵と與一右衞門、本陣の長右衞門(市岡)、年寄役の七兵衞、萬兵衞孫右衞門がいる。

驛の規模

当驛の元高1334石余のうち、500石については堤銀・伝馬銀の納付は免除され、残りの石高分のみで役銀を納めていた。また、御救金三十両を給せられることは落合驛と同様である。給米は問屋二人米九石、年寄四人高四石(山村氏宛行き)、定使一人米四石(同上)、帳付一人馬指一人金三兩(問屋より給す)。助郷は落合驛と共通の村が担い、大名下向の時は、中津川驛へ人馬を寄せ、落合・中津川の両驛は残らず馬籠驛へと送る。寛永(1624-1644)の助郷の定高は8737石余、『元禄七年[1694]申渡證』文面には十三箇村八千三百一石とある。

  • 尾州領:駒場村 手金野村 千旦林村 茄子川村(旗本領と見受けられる)
  • 苗木領:上地村 日比野村 高山村 福岡村 下野村 上野村 坂下村 瀬戸村
  • 岩村領:阿木村

前述の通り、驛の人馬は二十五人、二十五匹が定められ、余りの人馬は助郷で務める。そのうち苗木領八箇村は木曽川を隔てているため、満水の時は駒場・手金野二箇村より八箇村分の人馬を立て替えて務め、後日、八箇村より賃銭が支払われる定めとなっていた。

欄干のない橋

中津川橋は、假橋(板橋)で長さ十四間(約25m)、幅九尺(約2.7m)。『木曾街道六十九次圖繪』には、三箇所の橋脚(橋台枠)に架かる欄干のない土橋が描かれ、堤防の上に二本の大木を置き、背景には遠く恵那山が表れ、また板葺の人家も描写する。

参考
『恵那郡誌』(恵那郡教育会、大正十五年-1926)319頁

中津川市本町1丁目2番3号
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