江戸時代初期、土中から本尊薬師如来像が掘り出されたことを機に再興された。ただし、往古の法灯を直接継ぐものではない。
国分寺とは天平七年頃からの飢饉と疱瘡を憂いた聖武天皇と光明皇后が発願し、天平十二年頃には国分寺の建立が命ぜられた。天平十三年の勅で金光明最勝王経を根本経典としたことは、前年の藤原広嗣の乱をきっかけとして、国分寺の性格を鎮護国家に大きく舵をきらせたことを窺わせる。国分寺は正しくは金光明四天王護国之寺と称して、僧二十人を置き、毎月八日に最勝王経を転読させた。
参考:『大垣市史 通史編 自然・原始~近世』(大垣市、平成二十五年)