圓福寺

亀の甲羅

山号は亀井山。上知我麻社の西にある。時宗、京都四条の金蓮寺の末寺。「亀井道場」とも呼ぶ。当寺はもと天台宗の古刹であったが、開山の厳阿上人は足利家の一族で比叡山におられたものの、ゆえあって遊行し他阿上人に帰依して宗を改め、この寺を中興して住持となった。元応元年(1319、己未)より、足利治部大輔尊氏公のご帰依があり、坊舎を数十宇建立し、寺領宝物など寄進されたが、数度の火災に罹り灰燼となった。その後、普広院足利義教公が富士御覧のために下向された時、この寺に三日ご逗留され、和歌や連歌などの会が催された。その時の懐紙や短冊などが、今なお残っている。厳阿は知徳に優れ、かつ和歌や連歌に長けており、この寺で詠んだ呼続浜の歌は『新後拾遺和歌集』にも収められ、多くの人々に親しまれている。厳阿はこの寺に三十年ほど住んだのち、延文五年(1360、庚子)九月三日年、洛陽(京)の四条道場金蓮寺へと移り、應安三年(1370、庚戌)九月二十八日に遷化(死去)した。

  • 本尊 阿弥陀如来。熱田大神宮の神作、すなわち厳阿へ授けられた霊像である。脇侍の毘沙門天は龍宮より出現。また大黒天は「踏込の大黒」として、左足を踏み出しておられる像である。脇壇の十一面観音は泰澄和尚の真作である。
  • 観音堂 大日如來及び三十三所の観音を安置する。
  • 開山堂 嚴阿上人の像を安置す。
  • 鐘楼 境内にあり。
  • 鎭守社 地主權現を祭る。
亀井

本堂の北の方にある。厳阿上人が人を雇って井戸を掘らせたところ、一向に水が湧き出ることがなかった。掘り進めること三十五日にして、井戸の底で怪しきものに掘り当てた。厳阿が井戸の中に下りて見ると、亀の甲羅が地底一面に敷き詰まっているようであり、その広大さは測り知ることができないほどであった。厳阿は、まさにこの地が霊亀の住む蓬莱の地であることを悟り、その井戸を封じて「亀井」と名付け、山号に掲げて霊地としたのであった。

  • 二葉楠 由緒ある霊樹である。
  • 寺宝
    • 百韻連歌懷紙 永享四年(1747)九月十三日普廣院殿自筆。発句は嚴阿、脇は義教公、第三嚴阿なり
    • 短冊 嚴阿自詠なり
    • 追福和歌四巻 嚴阿上人三百五十回忌追福。三百五十首あり。
    • 織田大和守達勝の制札 「永正十五年(1518)午十月日」とある。また同人の書状、丹羽五郎左衛門長秀の書翰、毛郎左衛門良勝、佐久間左京亮信直、千秋加賀守範定、那古野弥五郎勝泰ら数十人の書状、さらには豊臣秀頼公が神宮寺に寄進された本堂の鰐口などの古物や霊宝と、たいへん多く書き尽くせないほどである。
芝居地

明暦二年(1656)、当寺境内にて芝居の興行が許可され、奥山清九郎や神岡勘弥といった役者が狂言を興行した。これが尾張国における芝居のはじめであるという。ちなみに、それより前の慶長十五年(1610)、名古屋城御造営の際、与治兵衛という者が京より女を多く連れてきて、熱田の町外れに桟敷を設け、勧進歌舞伎を興行したことがあった。

加藤清正の足軽二人、熱田へ使いに行ったが、この芝居の筵囲いの隙間から覗き込んだところ、与治兵衛の下人が棒で足軽の顔を突きかかった。足軽はいかにも神妙にその場を退き、銭を出して鼠戸(木戸口)から見物に入り、舞台へ上って狂言師一人・女二人を切り倒し、楽屋にいた与治兵衛にも手傷を負わせてその場を立ち去った。

与治兵衛はかろうじて命助かり、その由を清正公へ訴えたところ、「与治兵衛の訴え、最もな道理である。足軽は見つけ次第成敗すべし。女は望むほどわきまえを得させる、堪忍せよ」と言って、舞台の破損料ならびに与治兵衛の治療費を賜い、女も以前より優れた者を選り集めて下されたとのことである。『続撰清正記』や『尾陽雑記』等に見えるこの芝居の旧跡はいずれの場所であったのだろうか、ただ、熱田の町はづれであることが記されている。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市熱田区神戸町301番地
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