今の村久野村である。『和名抄』葉栗郡村國、『民部省圖帳』に村岡(岡は國の誤字)と見える。村くのと転じたのもたいへん古く、暦應元年(1338)十一月十三日、沙彌淨阿から尾張の目代に与えた古状に、「國宣當國村久野の庄大嘗會米の事」云々と見え、その後の物に村久野とも村雲とも書いたものがある。村雲の里が雅びた名だが、他国の人が聞き誤り歌にも詠んでいる。丹波國大嘗會の歌に村くもの里を呼んだ例がある、この村久野も、暦應の大嘗會米の國宣状を、曼阿羅寺に所蔵するように、大嘗會による地名と心得たるかも、確証はない。

『天正記』にもちはぎ中納言という人が、ここへ遠流せられたことがあり、秀吉公の母方の父であるという。愛智郡御器所村御所屋敷の頁に詳しい。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

江南市村久野町河戸48番地5