延暦十七年(798)に豊然によって開基した天台宗の寺院。本尊は十一面観音で、この先の天台宗五岳の一つ・横蔵寺は薬師如来で、都から横蔵寺に参詣する人々は薬師如来にぬかづくために当地域を通る必要があった。

開山には諸説ある。江戸後期の大垣藩士・以東実臣が著した『美濃明細記』と、永禄三年(1570)旧記五本から抜粋編集したとの奥書がある『谷汲山華厳寺古今記』(表紙名は『谷汲山根元由来記』)を併記する。

美濃明細記説

延暦一七年(798)豊然上人が開基した。願主は奥州会津郡黒河郷富岡(現双葉郡富岡町)の住人・大口大領で、京都で観音像を造らせ、奥州へ帰る途中、観音を霊夢によって、この地に留めた。この十一面観音像は本尊となっている。観音像に華厳経が書かれていたことから寺号をつくり、谷々の衆徒が湧き出る油を汲んで常灯に使ったことから谷汲山と名付けた。

豊然と大領は霊夢によって南山の麓から現在の地に移したが、現在地は元来、毘沙門堂の建っていた場所である。それ故、毘沙門天は観音の脇侍となった。大領は奥州へ帰る時、僧徒と争って観音の頂上の十面を抜取って持ち帰り、奥州富岡妙福寺の新像の頂につけた。大永一年(1521)秋、谷汲の住僧千葉坊承性、一乗坊貞純は霊夢によって奥州へ行き、昔のことを話して頂上面を返してほしいと頼んだ。同年一一月一四日妙徳寺快尊は十面を以前のように尊像の頂上に著けた。

天慶七年(944)勅願所となった。
承久三年(1221)承久の乱で寺領が没収された。
建武一年(1334)十一月下旬、新田・足利合戦の際、新田一族・堀口美濃守貞満が九ヶ年当山の峯にたてこもり、房舎が焼失した。本堂が異常なかった。
永和年中(1375-1379)土岐康康が修造した。

文明一一年(1479)二月二六日日本堂が全焼した。観音及び毘沙門天は異状なかった。文明一四年薩摩国谷山福本慈現堂住僧道破が本堂を建立した。本堂の大黒は道破の自作である。なお毘沙門天は天満大神(菅原道真)の作で、胎内に道真筆の経文三十巻が納めてある。

大口大領が建造の折、岩を穿った処、石の中から油が湧き出たので、それを常夜灯に使ってきた。将軍足利義教が見たがったので京へ送った処、永享一三年(1441)義教は殺され、騒動にまぎれて油石は谷汲に戻らなかった。

谷汲山華厳寺古今記説

開山は諸説ある。

イ.
奥州会津郡黒河郷富岡の住人大口大領が十一面観音を造立しようとして上京三度に及んだ。三度目の上京は延暦一七年である。大領は東山清水坂の仏師を訪ね、千両の砂金を出し一着を誂え、手半の十一面観音の制作を依頼した。仏師は早速七尺五寸の全て金色に輝く観音像を造って大領に与えた。大領は尊像を拝見して、こんなに大きな像を遠国まで持ち帰ることはおっくうだと洩らした処、仏師は「道中の迷惑はかけないから安心なさい」と言い、像に笠と履物と杖を差出したところ、尊像はそれを受取り、自分で笠をつけ沓をはき杖をついて先に立って歩き始めた。大領はふしぎに思いながら供をして下っていった。
途中、美濃国青野を過ぎ赤坂で尊像は腰掛けて暫く休憩した。その石は今もあるが、やがて石から立上ると北へと歩み始めた。大領が
「奥州は東のほうです。東を指して歩いていって下さい」
と申し上げると、尊像は
「自分は遠い奥州までは行かない。ここから五里北の山中に有縁の地があるので、そこに住んで衆生を済度する。お前も志あればついてこい」
と語った。大領は本意では無かったが、尊像の仰せに背くわけにもゆかなくて、供をしてきたところ、華厳寺の南にある丸山まで来ると尊像は止って少しも動こうとしなかった。大領は赤坂で北方の山中に勝地があると告げられたことを思い浮かべて合点し、寺を丸山に建てて尊像を安置した。(『美濃明細記』の南山とはこの丸山のことである)

ロ.
或る記録では華厳寺の尊像は紀伊国那智山滝本の先手観音が作ったという。

ハ.
或る記録では本尊は山城国京都東山の清水寺の観音の作であるという。

二.
或る記録では、大口大領が上京して腕のすぐれた仏師を求めた処、柳原のほとりで化人が姿を現わし大領に話しかけた。
「私は文殊大士が作った十一面観音像を所持しているが、身体には六十花華厳経を書き、衣には三千仏を描き、袈裟には諸仏を写している。また先手千眼の一着手半の十一面観音を胸の内に収めている霊験いちじるしい本尊である。お前がほしいとあれば譲ってあげよう」
喜んだ大領は千金を化人に与え、本尊を入手した。

ホ.
以上は桓武天皇延暦一七年(798)の草創説であるが、別に孝謙天皇天平勝宝一年(748)の創建説もある。

延暦の末、豊然と大領は霊夢によって、丸山から現在地に本尊を移した。現在の大領屋敷という地名は、寺のまわりにあった大口大領の屋敷の名残である。豊然と大領が伽藍を建てようとして岩を掘ったところ、油が湧き出した。大領は
「私は此の地に仏像を安置しようとしている。もしここが広く来世を利することが出来るとすれば、油が多く湧き出るように」
と祈った。その言葉が終りきらないうちに、油は泉のように溢れ出た。喜んだ大領は、湧き出た油を本尊の常灯に使い、その余りを寺坊で使った。

大口大領は初め、寺僧と睦じかったが、後に不和となり、本国へ帰っていった。その折、本尊の頂上の十面を抜取って、奥州へ持帰り、仏師を呼寄せて坐像の大光普照を作り、かの十面を新しい仏像の頂上に付けた。新しい仏像を坐像造ったのは、歩いてゆかないように配慮したのである。頂上の十面を持ち去られた華厳寺では欺いて新しく頂上の十面を造らせ、本尊の頭上についだが、うまくつかなかったと伝えている。

谷汲山華厳寺の寺名について古老によれば、当山は以前、都出山と名付けていたが、々の衆徒が湧き出る油をんで本尊の常灯に使い、坊中の夜灯にも用いた。そこで都出山の名を改めて谷汲山と呼んだ。

御門前

寺の門前に形成された村は「御門前」と呼ばれた。弘化二年(1845)には、宿屋が一八軒あった。明治維新後、巡礼の数が減り、常宿は二軒になった。

明治終わり頃の谷汲参詣

安八の人が谷汲に参詣するのは七年目の御開帳が中心だった。谷汲までの約七里を日帰りする為には、暗い内に家を発ち、東海道線の鉄橋で日の出を拝むことが一つの目安となっていた。どの集落も足の達者な人々が数人連れ立って歩いて行った。年寄の中には一泊して、疲れをとってから帰る人もあったが、多くは日帰りだった。帰りは乗り合船を利用して揖斐川を賑やかに下って帰った。(『安八町史』)

参考:
『谷汲村史』(岐阜県揖斐郡谷汲村、昭和五二年)76-80頁
『安八町史 通史編』(安八町、昭和五十年)724頁
『揖斐川町史 通史編』(揖斐川町、昭和四六年)126頁

揖斐郡揖斐川町谷汲徳積
種別